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4日目
詩緒は昨日見かけた男の子のことをぼんやりと考えていた。父と弟の声に紛れて、明確に聞きとれたわけではなかったが、「東京」と言っていた気がする。年は分からないが、自分と同じくらいなのではないかと詩緒は思っていた。
東京ー詩緒にとっては憧れの世界だ。住んでいる人たちも、その人たちが着ている服も聞いている音楽も何もかもがこの東北の町よりも先を行っている。詩緒が好きなテレビドラマや好きなアーティストのプロモーションビデオに出てくる場所の多くは東京にあった。間違いなく日本の中心だ。
詩緒の父と母はともに千葉県の出身だった。父は東京にある会社に就職したが、少し経ってから東北地方を担当してほしいとの辞令がおり、詩緒の母も務めていた会社を辞め、二人でこの東北の地に引っ越してきた。そして、その一年後に詩緒が生まれ、さらにその4年後に弟の周平が生まれた。だから、詩緒の友達が学校で使うようなこの地の方言は家の中では誰も使わない。
毎年とは言わないが、夏休みなどの長期休暇の時に千葉にある両親の実家に行くことがあった。そこは自然豊かで海がきれいな町だったが、自然の豊かさでは詩緒が住んでいるこの場所だって負けていなかった。詩緒が両親の実感を訪れるときに胸を躍らせるのは東京観光だけだった。
訪れるいくつもの場所では、その駅前の建物一つで地元の町が大きく活気づくのではないかというようなショッピングセンターやゲームセンター、飲食店などが立ち並び、詩緒がインターネット検索でしか見たことがないアーティストのライブが毎週末に行われ、何より人通りだけで町が息づいていることを感じた。乗っている電車はまず車両の数が1両や2両ではなく沢山あるし、その一つ一つの車両に詰め込まれている人の数も圧倒的に多い。主要な駅に着くと、まるでドアから人が吐き出されるようだった。
詩緒は漫画が好きだった。でも、地元の最寄り駅にはそもそも本屋すらなく、本を買いに行くなら新幹線が発着する主要駅までローカル線でたどり着かねばならなかった。詩緒が東京を訪れた時に驚いたことの一つは書店の数の多さだった。町中に大型書店が大量にあり、特定の書店の場所など調べなくてもテキトーに歩いて行けば本屋に行き当たった。それどころか電車を乗り継ぐとき、駅の中でも書店を見つけることがあった。
詩緒は決して自分の地元の町が嫌いではなかった。それでも、東京で学生服を着た自分と同じくらいの年の学生たちが自分が飲んだこともないようなおしゃれなパッケージの飲み物を片手に、地元には絶対にないようなショッピング施設に入っていくのを見たりするとき、自分にとっての「特別」は彼らにとっての「日常」に過ぎないのだという事が実感された。自分にとって東京は「訪れる」町であり、それはきっと少なくとも自分が自立するまでは動かすことが出来ない事実であることを地元に帰る新幹線の中でぼんやりと考えることが多かった。
詩緒の父は「この場所は静かでいい」というようなことをよく言った。詩緒もうるさい場所には住みたいとは思わなかったが、あまりにも静かなこの場所には平和だけがどこまでも広がり、一筋の刺激もつけ入る隙が無かった。詩緒が通う中学校にはこの町の外は滅多に出ない家庭の子どもばかりが通っていた。詩緒が東京から帰ってきたときの土産話には教室中が釘付けになったが、そんなことが起こるたびに詩緒は自分の立ち位置がよくわからなくなった。東京の人間ではないのに東京の話をとうとうと語る自分の存在意義がものすごく脆く感じることがあった。
詩緒は都会に引っ張られたようなその価値観と、少しこの田舎を斜に構えてみるようなその態度でクールなキャラクターとして扱われていることに自覚があったが、実はこの田舎を心から愛し、祭りごとに汗だくで臨むような友達へのあこがれがあった。彼らの方がよほど自分より幸せを感じているのではないかと詩緒は思っていた。
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