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パパの声です。「しまった」と呟いて、りかいちゃんはおそるおそる、振り返ります。
「……え? 用がある人って……てか、りかいなんでここに?」
「ぱ、パパ、これはだな……」
りかいちゃんが言い繕う前に、パパははたと視線の向きを変えます。
「……ん? あんた、まさか昨日の依頼人か?」
たんていだんの協力者に、パパがそう声をかけた矢先でした。ひょいとりかいちゃんの体が宙に浮いたのです。
「……探偵って聞いてちょっと嫌な予感がしたけど、よりによってお前かよ」
何が起きているのかわからず、しょーむくんとまとちゃんはりかいちゃんを見上げて目をぱちくりさせます。
「おいカタマ、なにをする。りかいをおろせ」
「……次に会ったら報復しようと決めていたんだ。まさかここで会うなんてね」
「ほうふく?」
りかいちゃんが意味がわからないというように首をかしげると、パパの顔が青ざめます。
「おい、依頼の話は娘と関係ないだろ」
「関係なくたっていいんだよ。あんたが職務放棄したのが悪いんだから」
「だからできないとちゃんと説明しただろう? 探偵が非合法的な調査をするわけにはいかないんだよ!」
「犯罪にならないように調査をするのが探偵の仕事じゃないの?」
一体何の話をしているのか、りかいちゃんにはわかりません。でも、片間がとても怒っていて、パパが片間を怖がっていることはわかりました。
「娘を降ろせ! 警察を呼ぶぞ!」
「勝手にしなよ。警察にチクったら、この子がどうなるかわかってるならな」
”けいさつ”という言葉にりかいちゃんはびっくりします。とても危ないことが起きている気がしました。
「カタマ、おろせ! りかいをおろせ!!」
片間はりかいちゃんを抱えたまま走り出しました。
パパは片間を追いかけますが、片間のほうが足が速くて、追いつけません。
「パパー!!」
「誰かそいつを捕まえてくれ! うちの娘が誘拐されたんだ!」
パパの声が遠ざかっていきます。曲がり角を最後に、パパの姿は建物に遮られて見えなくなってしまいました。
「あ……!」
りかいちゃんは握っていたお気に入りの虫メガネを落とします。
「カタマ!」
片間は何も言いません。りかいちゃんを抱えて走る分、息も絶え絶えです。
やがて片間の走る速度はだんだん落ちていき、徒歩になりました。
どこに連れていかれるのでしょう。片間に担がれているりかいちゃんは骨ばった背中越しに遠ざる道の奥を眺め、じっとしていました。
閑散とした住宅街のようです。片間はブロック塀で囲まれた細い道路を歩き、なんども分かれた道を通ります。複雑に入り組んでいる分、この住宅街に迷い込んだら帰れなくなってしまいそうです。
片間が辿り着いたのは二階建ての小さなアパートでした。『**ハイツ』という看板があります。りかいちゃんは読めない漢字の下をじっと見ていました。
片間はよいしょとりかいちゃんを担ぎ直して、錆びた鉄の階段をカンカンと登り、ポケットから取り出した鍵で扉を開けました。
アパートの中には誰もいません。窓も閉められていて、カーテンの隙間から漏れる光が唯一の明かりでした。
片間は部屋の一番奥に行って、立ち止まりました。しきりに部屋をくるくると動き回ります。
「……連れてきちゃった……どうしたらいいんだ……」
りかいちゃんは片間の顔を見ます。何だか焦っているようでした。あの恐ろしい形相はどこへやら、最初に会った時の片間に戻っていました。
「カタマ、おろせ」
りかいちゃんは今の怖くない片間に言いました。片間はそっとしゃがんで、りかいちゃんを降ろしました。
「……ジュース、飲む?」
片間が気を使うように聞きました。りかいちゃんは変だなと思いました。片間はどうやら、りかいちゃんのことを怖がっているかのようです。りかいちゃんは辺りを見渡して、「ここはカタマのいえだな」と判断しました。
「どくをいれてないだろうな?」
片間は答えませんでした。台所に行って、戻って、「開けてないやつだよ」とりかいちゃんにりんごが描かれた缶を渡しました。
「……怖がらせるつもりじゃなかったんだ」
「りかいがこのていどでこわがるとおもうか? ぶってもむだだ、りかいはなにもはくじょうしない。たんていだんのリーダーをなめるな」
「乱暴するつもりはないよ」
片間はその場に座ってあぐらをかきました。悩むように頭を抱えてじっとしています。何かをブツブツと呟いているようです。
「(カタマはなんでいきなりおこったんだ? ずっとやさしかったのに)」
りかいちゃんからすると、片間がそこまで悪いやつだとは思えませんでした。
「カタマはパパのおきゃくか?」
「……ああ、依頼人かってこと?」
「きのう、ひとりおきゃくがきたとパパがいっていた。パパはきょうおしごとをするはずだから、りかいたちはパパをびこうしていた」
「仕事? そんなはずはない。俺の依頼は断られたんだ」
「なにをいらいしたんだ?」
「……元カノの調査だよ」
「もとカノ。だれかにふられたのか?」
「でも俺、諦め切れなくて。彼女が俺を振った理由をどうしても知りたかったんだ」
「……」
「ストーカーだと誤解されないように探偵に依頼しようとしたんだ。でも調査できないって」
「……よくわからないが、わるいいらいをしたのか?」
「大したことじゃない。彼女の部屋に侵入しろとか、そんなことまで言うつもりはなかったんだよ。でも何度頼んでも取り合ってくれなくて。しかも『学生なんだから失恋の一つや二つもするだろう。そんなことに金をつぎ込むなんて、親が泣くぞ』だって。学費に手をつけているわけじゃないし、俺のこと何も知らない奴が偉そうに説教垂れて……すごく腹が立った」
「パパがいじわるをいったのか?」
片間は少し間をおいて、首を横に振ります。
「君のお父さんが言ったことは正論だ。でも依頼を受け入れてくれなかったことが許せなかった。お金はちゃんと払うのに、どうして引き受けてくれないんだって。学生だからかな? 俺のこと舐めてるなって思った」
りかいちゃんは家でご飯を食べていた時のことを思い出しました。ある夜、大好物のエビフライの日、パパとママがニュースを見ながら言っていたのです。
『探偵がストーカーに加担して逮捕だって……怖いわね。あなたも気をつけてよ』
『わかってるさ。調査とストーキングは紙一重だ。ストーカー規制法ができてから俺も臭そうな依頼は断ってるよ。巻き込まれるわけにはいかないからな』
あの時も、確かに”ストーカー”という言葉が出てきました。何だか真剣なことのようです。ストーカーが悪いことだとはわかります。でもりかいちゃんには大人の話がよくわかりませんでした。
『パパ、まきこまれるってなんだ?』
『うん? 怖いことをして、りかいやママに迷惑をかけないようにするってことだよ』
『めいわくなのか?』
『もしパパがいなくなったら困るだろう?』
『べつにこまらない』
『ちょっ!?』
『りかいはパパとママがいなくてもこまらない。でもかなしくなる』
ませてるなあ、なんてパパは苦笑いしていましたが、りかいちゃんはパパが何か頑張ろうとしていることはわかりました。
「……りかいはこどもだ」
りかいちゃんは静かに、どこか悔しそうに、片間に言いました。
「キセーホーやシンニュウがわるいことなのはわかるが、なんでわるいのかがよくわからない。おとながおこっていけないことだというから、わるいことだとわかるだけだ」
「……はは……子供は気楽でいいな。でも俺はもうおしまいだよ……」
「わるいことをしたらちゃんとあやまれ」
「謝って許してもらえることじゃない」
「りかいはゆるす」
「え?」
「ごめんなさいされたら、りかいはゆるす。『ごめんなさい』に『いいよ』とかえすのがいいことだからだ」
「……」
「わるいことをゆるすのはわるいことか?」
「……」
片間はりかいちゃんをじっと見ました。まるで見たことがないものを見るような、まん丸な目でした。やがて顔を伏せて、「ごめんなさい」と、小さく言いました。
「む? カタマどうした?」
「俺は大馬鹿だ。とんでもないことをしたんだ……っ!」
そして、片間は正座をして、お辞儀をするように床に頭をつけました。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「いい。ゆるす」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「しつこい」
りかいちゃんの不機嫌そうな言葉で、片間は「ううう」と唸るように嗚咽を上げました
「うああああああーーーーー!」
片間が大泣きしたので、りかいちゃんはうずくまる片間の背中をペシペシと叩きました。
「なくな」
「うう、ごめんね、ごめんなさい、うう、ううぅ……!!」
「わるいことをはんせいしたな?」
片間はガクガクと頷きます。
「よし」
そして、りかいちゃんは持っているスマホの電源が落ちていることを思い出して、「カタマ、スマホかせ」と言いました。
「パパにでんわする。カタマはパパにもちゃんとあやまれ」
「……でも、警察が、」
「あんしんしろ。けいさつにはでんわしない」
「でも君のお父さんが通報しているはずだ」
「それもパパにきく。りかいにまかせろ」
りかいちゃんは片間から預かったスマホを操作します。
「……慣れているんだね」
「りかいは3さいのときからつかっている。スマホはとくいだ」
記憶している電話番号を入力して、通話ボタンを押します。コール音がしてからぷつと鳴って、『もしもし』とパパの声がしました。
「パパ、りかいだ」
『りかい!! 無事なのか!?』
「ぶじだ。いまカタマのいえにいる」
『そいつはそこにいるのか? 電話を代われ! 娘に何かしたら……』
「りかいはカタマをゆるした」
『は?』
「カタマははんせいしている。なんどもごめんなさいした」
『いやあのな、その男がしたことは簡単に許せる問題じゃないんだよ!』
片間が唇を震わせています。りかいちゃんは「だいじょうぶだ」と言うように片間と視線をあわせて頷きます。
「けいさつにはでんわしたか?」
『当たり前だ! ママのスマホはどうした?』
「でんちきれた」
『どうりで繋がらないわけだ……』
「パパ、けいさつはいらないからこさせるな。パパだけでこい」
『いやでも、』
「パパはりかいのいうことをしんじないのか? けいさつをつれてきたら、りかいパパにキレる」
『りかい……!』
「もうパパとくちきかない。いっしょにおふろもはいらない。いっしょにねない。ぜっこうだ」
『なんでそういうこと言うの!? パパ泣くよ!?』
「ないているのはカタマだ」
『……』
パパはしばらく考えるように黙って、『わかった』と答えました。
『りかい、今どこにいるかわかるか?』
「じゅ、住所は……」片間が答える前に、りかいちゃんは「0*32**7*4」と電話番号を口にしました。片間は唖然とします。
「なんとかハイツというアパートのでんわだ。かんじはよめなかった」
『……わかった。調べてそっちに向かう』
「03とかかれたでんしんばしらもあった。そのちかくだ」
「たのんだぞ」と言って、りかいちゃんは通話を切ろうとします。
『いやりかい!! 片間と電話を代わー』
プチッ。
「いうのおそい」
りかいちゃんの人差し指はすでに赤いボタンを押していました。
「……ありがとう」
片間は涙をボロボロと流していました。りかいちゃんはため息をついてからビシッと言います。
「もうなくなカタマ。なくとしあわせがにげる」
「しあわせ?」
「カタマのカード、えんぎのいいすうじがたくさんあった」
片間は何のことかわからず、きょとんとします。
「000057787767772。7がいっぱいある」
「俺の学生証番号……? よく覚えてるね」
「すうじをおぼえるのはとくいだ」
「……すごい記憶力だね」
「りかいはてんさいだからな」
着信音がして、片間は涙を拭ってからスマホを手に取りました。片間は震えていましたが、パパは怒っていないようです。りかいちゃんはほっとしました。
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