記憶の結晶

2/2
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
——私は、彼がここに来た理由を知っていた。 それは、彼を任される時に教授から教えてもらったものだった。 彼には、彼のことを思い出せない恋人がいる。 大学病院で研修医をしていたときに彼は彼女と出会った。 彼女はある病気を患って入院していた。 手術は成功したものの、病は脳に転移していて、彼女は徐々に色々なことを思い出せなくなっていった。 今いる場所がどこなのか、目の前にいる人が誰なのか、自分が誰なのか。 そして、彼のことも徐々に思い出せなくなっていった。 彼は、大切な人の中にある記憶を呼び起こすためにここにいるのだ。 「柚月さん、僕は、大切な記憶は溶けているだけだと思うんです」 マウスを見つめていた彼が口を開いた。 「溶けている?」 「はい」 彼は近くにあったビーカーに水を入れ、戸棚から取り出した塩化アンモニウムをスプーンで掬って入れた。 実験台の上にあるアルコールランプに火をつけて、金網の上にビーカーを置く。 ビーカーの中の水の温度は上がっていき、塩化アンモニウムは溶けていく。 「見ていてください」 彼は試験官立てに挿さっている空の試験官にビーカーの中の水溶液を注いでいく。 「......あ!」 何もないところから無数の小さな星形の結晶が現れた。 ゆらゆらと試験官の上の方へと上がっていき、大きくなると、下に落ちて試験官の底に降り積もっていく。 「星が降り積もっているみたい」 化学的に言えば、これはただの再結晶だ。 水の温度が融点に達して個体が液体に溶け、水の温度が下がって再び結晶として現れる。 凝固熱で結晶は上へと上がっていき、重さに耐えきれなくなって下に降り積もっていく。 「記憶も同じです。思い出せないだけで、必ず自分の中にある。自分と一つになって溶け込んでいる。ふとしたことがきっかけで再び現れ、淡く美しく降り積もる」 「理系人間なのに文学的ね」 試験官のガラスに優しく微笑む彼の表情が映っていた。 彼の大切な人が、彼のことを思い出せますように。 私の胸に降り積もった小さな結晶に願いを込めた。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!