記憶の結晶

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「どの記憶を削除して、どの記憶を残しておくか、自分で選べられたらいいのにね」 私は実験用のマウスにスポイトで餌を与えながら、眠気と疲労でぼうっとする頭で呟いた。 「人間の記憶をそんなパソコンのデータみたいに言わないでくださいよ」 隣の席でパソコンの画面と睨め合っていた彼はふっと表情を緩めた。 その表情がとてもさりげなく柔らかで、疲れた脳の奥が少しだけ和らぐのを感じた。 「だって、脳が保持できる記憶量は決まっているのよ。それなのに、辛い記憶の方が残ってしまうなんて人間の脳のつくりは不都合極まりないわね」 「それは……」 彼は少しだけ考えて、 「生きていくうえで、また同じ辛い思いをしないようにするため、なんでしょうね」 彼は私の手からスポイトをそっと取り上げると、猫背の背中を伸ばしてマウスへ餌を与える。もう片方の手でマウスの頭を優しく撫でる。 「あまり可愛がりすぎると、マウスにとってもあなたにとっても酷よ。どちらかが忘れて、どちらかが覚えていることほど辛いことはないわ」 彼は何も言わずにただ静かにマウスを見つめていた。 私と彼は研究室で脳の『記憶のメカニズム』について研究している。 この研究室に所属して8年になる私は、先月、地方の大学病院からやってきた彼の指導役として任命された。 初めて会った彼は、痩せた体に皺だらけの白衣を羽織っていた。 色白の肌と生気のない目が印象的で、若いのにひどく疲れているように私には見えた。 研究室のみんなと打ち解けようとはせず、朝から晩までほとんど喋らずに実験室に篭っていた。 食にも興味がないようで、砂糖でコーティングされたとても甘そうなパンと苺ミルクを飲んでるところしか見たことがない。 少し休んだ方がいいよと言っても「他にやることもないので」とやるせなさそうに言葉を返す。 どこか変に偏っていて、でも、そこが彼の魅力でもあるように感じた。 彼の研究のテーマは、記憶想起——脳に保存された記憶の中から特定の記憶を思い出すメカニズムの解明だった。 実験のために脳の神経を傷つけられたマウスは、今までの記憶を思い出せなくなる。 自分が何者でどうやって生きていたのか、それまで同じゲージにいたマウスのことも忘れてしまう。 そのマウスに一定の条件で脳に刺激を与えることで、思い出せなくなってしまった記憶を呼び起こす。 彼は繰り返し実験を行う。 どの程度の刺激が記憶想起に効果があるか、どのくらいの刺激なら体に影響を及ぼさないか。 意識と集中力をただひたすらに目の前の実験に注ぐ。 でも、全ての記憶を、取り戻したい特定の記憶を取り戻すことは叶わない。 彼は希望と絶望を何度も繰り返しているように見えた。
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