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辞令が出て、あのアパートは引っ越した。尾藤の今の住処は捜査本部のあるS市のマンションである。前より少しだけ広くなった。隣には若いカップルが住んでいる。
尾藤はキッチンに立ったまま缶ビールを呷って、神波の言葉を反芻していた。
未練か。
自分から離した手に縋るなんて、今更できない。
ふとしたときに、茉莉を思い出す。笑った顔や、心地良い柔らかな声や、甘い匂いを。
アパートを引っ越すとき、これで茉莉が訪ねてくる可能性も完全に無くなったんだなと思った。
一年なかったんだから、どのみちもうないのだが。結構しつこい茉莉が、あんなにあっさり諦めるとは、思っていなかったところがある。
親とは上手くいったのだろうか。また新しい縁談が持ち込まれたのだろうか。今度はどうにかまともな男であって欲しいが、茉莉もだいぶしっかりしたから、大丈夫だろう。
ビールの空き缶をすすいで、流しに置く。
キッチンは前より広くなったが、殺風景だ。一時凝っていた料理はあまりやる気がなくなった。自分のために何かする気力は年々なくなっている。
気付けば四十二歳。
仕事しかしないで、段々と老い衰えながら、たまに昔の女を思い出して。最期は「特に何もない人生だった」と思って死ぬんだろうか。
尾藤は茉莉に別れ話をした日のことを思い出した。
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