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「舐めんなよ小僧」
押し殺した声は沼の底から湧くように低かった。
「正当防衛が通る殺し方も、絶対死体のあがらねえ場所も、俺は全部知ってんだよ」
「は……」
「俺はこの仕事に未練なんてねえんだ。もう一度茉莉に近付いたら殺すぞ」
いつきが息を呑む音がした。はっきりと恐怖の色が顔に浮かぶのを見て、手を離す。
若造が。
なぜ、行儀が良いだけで二十年も刑事をやってこれたと思うのだろう。酸いも甘いも噛み分けないと、清濁を併せ呑まないと、この仕事はやっていけない。
鬼のビトーという通り名は不名誉だが、伊達ではない。
もちろん脅しに過ぎなかったが、本当に茉莉に危害が及ぶようなことがあれば、自分は何をしでかすか分からない、と思う。
「茉莉、あなたがどんな人なのか、分かってるんですか」
いつきは取り繕ったように生意気な口調で言ったが、もう強がりにしか聞こえなかった。当分、こいつがまたちょっかいを出してくることはないだろう。
尾藤は無視して、テーブルの上の会社案内を眺めた。
潮時だ。
ただただ真っ直ぐに、自分を受け入れてくれた、年下の恋人。これ以上縛り付けるわけにはいかない。
こんな日が来ることは最初から分かっていた、と思う。また前と同じ生活が戻ってくるだけだ。彼女は、白昼夢みたいなものだ。
あまりにも、でき過ぎた夢だった。
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