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 西塔矢文(さいとうやぶみ)という名を知らない生徒はこの高校には大多数存在する。それは厳然たる事実であり、入学してから向こう一年、その歴史は揺らいだことがない。  揺らぐとすれば、天地が鳴動するときだ。たった今、この瞬間、世界が突如終焉を迎えるきわになり、何者かが神通力に目覚め、摩訶不思議に『西塔矢文』のワードが閃き、覚醒した力をもって全世界に拡散されさえすれば、歴史にひずみが生じよう。  つまり、ありえないということだ。  そこまで豪語できるのは西塔矢文は、ぼくのことだからである。  ぼく自身のことはぼく自身がよく知っている。ぼくが知名度を上げないように務めているから、自信を持って明言できる。  目立とうと思えば目立てる、なんておめでたい驕りはない。不細工ではないよ、とはよく言われるけれど、イケメンではないよ、ともよく言われる。頭は悪くないよ、と言われるが、頭がよくはないよ、とも言われる。能力も容姿も平均値のぼくにカリスマ性なんてたかが知れている。  それについて、ぼくはひどく自覚的だ。だからおだてられて、自覚がないままにはしゃぐなんて見るに堪えない太鼓持ちには呆れ返るものだ。よくもまあ、恥ずかしげもなく踊れるものだ。きみは陽キャを履き違えた不良どもに遊ばれているだけなんだよ、と指摘すらしたくない。  まあ、こんな感じでぼくは今日も今日とてクラスの陰でぐうたらと仮眠をとる休み時間を謳歌するのだった――と、そんな風にぼくにまつわる物語が終え、夢の世界へとはばたこうとしていると、ぼくの後頭部を縦長の刺激が襲った。机に突っ伏した姿勢だったので、鼻が天板にめり込む――めり込むは言い過ぎでも、それぐらいの衝撃が鼻先に伝わった。  いっ、と情けない声を反射的にもらす。じんわりと血の匂いが鼻の中を巡った。上半身を起こし、鼻元を触って確かめる。どうやら鼻血は出ていないみたいだ。  ことのついでに数段、首の角度を上にあげると、前の空き机(席の主はどこかに行っている模様)の天板に腰を下ろし、スカートの制服なのにこれみよがしに足を組むひとりの女子がぼくを見下ろしていた。 「よっす、にっしー。どうだい? 私のチョップアラームの威力は」  右手を指の付け根をすべて閉じて尖らせたような形に構え、そう得意げに嘯いた。 「ついさっき発案したんだけど、こんなの誰もつくっていないんじゃない? 特許とれるんじゃない?」  特許が何たるかを知らない奴の台詞だった。……いや、彼女の場合、本当に知らないのかもしれない。  かっこいいから使ってみたと言われても納得しちゃうもの。 「威力は弱小だが、心地は最悪だ。それに特許はとれねえよ」 「それは残念。だけど、東の特許は持ってるもんね。ヒガシヤさんだから」 「いや、お前の名字の読みはアズマヤだろ」  東屋杏(あずまやあんず)。それが彼女の名前。  恰好は黒髪ロングヘヤーで丸眼鏡、改造なしで規定通りの制服と、聡明な印象を受けるのだけれど、中身が伴わない。  このように馬鹿丸出しの発言を、まるで生き甲斐のようにはく。  ぼくが厭世家とするなら、彼女は楽天家だ。  勉強はできなくてもいい、友達ができればいいのだ――それが彼女のモットーだ。……感銘は受けるけれど、そのまま突っ走ったら、人生迷走しかねない。  何事もバランスよく。  その点で行くと、ぼくのバランス感覚は優れている。先述の通り、容姿の能力も人並みなのだから――尖りなんて平穏の妨げにしかならないし。 「じゃあ、東屋って何屋さんなの?」 「何屋さんでもないよ。何も売っていない。公園とかにさ、屋根付きのベンチがあるだろ? ああいうのを東屋って言うんだよ」 「なるほど。てっきりパンを売っていると思ったよ」 「どうしてパンなんだよ」 「だって、東って英語でイーストじゃん? パンはイースト菌でつくるから、パン屋さんかなって思ったの」 「そのイーストじゃない」  そもそも綴りが違うし。  east――東。  yeast――酵母菌。 「つまり、売っているのはパンじゃなくて油だったわけね」 「…………」  こいつ、作為的なのか無為的なのかは不明だけれど、上手いことを言うときがあるんだよな。  イーストの小ボケも、綴りを並べてみるとふたつの単語、似ていたし。カタカナだけじゃなく英語もそっくりなんだよっていう冗句なのか? ……いや、そんなはずはないな。あのきょとんとした顔に狙い澄ました様子は見受けられない。  どちらにせよ、義務教育を終えた高校生同士で交わされていると思えない会話だった。
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