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ヒイラギの境で
「よう来たねえ」
あ、三回目。
ぼくらが来ると、おばあちゃんはいつもそう言う。おじいちゃんはもういなくて、この家にはおばあちゃんがひとりで住んでいた。
小学校の夏休み。
きょうは六歳になる妹とふたり、電車をふたつ乗り継いでおばあちゃんの家に遊びに来たんだ。
「ごめんねえ。おばあちゃん寄合に出らんといけんの。夕方には戻るけ、ええ子で待っとき」
おばあちゃんはオシャレだ。
外に出るときはいつも、イヤリングとペンダントをつける。むかし、妹のめいこが羨ましがって、イヤリングをもらっていたっけ──。
「めいも、めいも行きたい!」
「めいちゃんはお留守番や。お小遣いやるで、アイスでも買っといで」
「うん」
ぼくはお金をもらって、ポケットにしまった。
玄関の扉を開けたおばあちゃん。足もとに見えたソレに、ねえとぼくが声をかける。
「その植木鉢ジャマだよ。来たときめいが転びそうだったんだ。どかしていい?」
「ダメよ、これはここやけええんよ。めいちゃんのこと、ようく見てやり」
「うん。……」
いつもやさしいおばあちゃん。
でも、少しだけこわいときもある。いまだって、シワのあるまぶたの奥からするどく目を光らせてぼくを見てた。
だからぼくはなんにも言えなくなって、おばあちゃんを見送った。
妹のめいこがぼくを見上げた。
アイス、食べたいんだって。ぼくは玄関に座ってくつを履いた。
「今日だから特別に、ぼくがアイス買いに行ってやる。なにがいい」
「めいも行きたい」
「お前、どんくせえんだもん。ぼくがひとりでいくから待ってろよ。イチゴのでいいだろ」
「うん、イチゴの!」
カギ閉めとけよ、とぼくは玄関を出る。
そのとき、とげとげしい植物の鉢植えを蹴倒してしまった。
「いってえッ、くそ、だから邪魔って言ったのにっ」
鉢植えは割れてしまった。
これだけ暑いと外を歩く人影なんかなくって、お隣の門前に軽トラが一台止まっているだけ。ぼくは駆けだした。幼いころに行ったきりの、記憶のなかにある駄菓子屋への道をゆく。駄菓子屋はけっこう遠くて、ぼくはくたくたになりながら畦道をすすむ。
ようやくたどり着いた。
妹が大好きなイチゴのアイスと、ぼくの好きなチョコアイスを買った。帰り道はなんとなく近く感じるものだ。
じーわじーわ。
蝉が鳴く。
畦道を抜けた先のアスファルトがぼくの足を焼いてくるから、アイスが溶けたら大変だと思って、また走った。
──家につくころには、汗をダラダラ流していたものだから、もう服がびっしょりになってしまった。
玄関前の鉢植えはこわれたまま、とびらの横に置かれている。仕方ない。あとでおばあちゃんに謝ろう。玄関扉に手をかける。すんなり開いた。鍵をかけなかったんだな、とおもいながら妹を呼ぶ。
「アイス買ってきたぞぅ」
けれど、妹から返事はない。
しょうがないな。ぼくは家の中を探した。古い家の造りだから、部屋が多いんだ。
でも、妹が行きそうな部屋はもう分かっている。ぼくがいちばん嫌いな部屋だった。
「めいこ、めいィ」
いつもなら絶対に寄らない。
けれど妹は、騒がしい性格のわりにいつもここで遊んでいる。ひとりでクスクスと笑うこともあった。
妹に聞いたら、楽しいんだ、と言っていた。
「めいったら、アイス食わねえのかよっ」
と、襖に手をかける。
ふわりと漂ってきた、白檀の香りが鼻につく。鳥肌がたった。
「めいこ──」
そのときだった。
ぼくは見た。
少しだけ開いた襖から、見えたその影。
「め、」
寝ころぶ妹の前に、こちらに背を向けてぼうっと立つ背高の男を。
「めい!」
妹から離れろッ。
と襖を開けて、ぼくは男に駆け寄った。
男がこちらに手を伸ばす。
そのときめいこと目があった。
めいこは、泣きそうな顔でぼくを見ていた。
────。
「終わりました」
肩を叩かれた。
は、と我に返った。
自分の呼吸が荒いことに気が付いて、むくりと身体を起こす。
「────」
ぐっしょりとイヤな汗をかいている。
今日は、茹だるような暑さだ。
床の間に鎮座する黄王檀の仏壇を見た。二段目に飾られた黒漆のちいさな位牌が、じっとこちらを見ているような気がして、思わず目をそらす。
今日は──特別な日である。
「終わりましたよ」
背高の男がふたたび言った。
この暑いなか背広をしっかりと羽織って、スーツは足先までシワひとつない。
男は、仏壇の前に正座する。
火のついた線香を一本、香炉にさして、男は合掌した。
「玄関先の柊──」
男がこちらに向き直る。
「さっき僕が割った鉢植えです。あれが気になってここまで入れなかったけど、毎年来ていたみたいですよ。彼」
「…………」
じーわじーわ。
蝉が鳴く。
白檀の香り。脳みそがしびれるような感覚に、首を横に振った。
男は立ち上がって台所へ行く。
壁を挟んで無遠慮に冷凍庫を開ける音、そして、低い声。
「柊は、魔除けとか結界の効果としてよく知られているんです。おばあちゃん、博識な方でしたね」
「…………魔。兄は”魔”ですか」
「いやいや。純粋。やさしくて勇ましいお兄ちゃんですよ。じゃなきゃこんなこと頼みません。でもちょっと繊細かな。……」
と、男はビニール袋を片手に戻ってきた。
どうしても、とつっけんどんにその袋を差し出してくる。
「貴女にイチゴのアイス、食べさせたかったんですって」
「──あ」
なかに入っていたのは、イチゴとチョコの棒アイス。いつも駄菓子屋へ行くとイチゴ味をねだったものだった。
誕生日おめでとうございます。
男はにこりともせず、つぶやいた。
今日は、特別な日。
──あの日を境に祝われることのなくなった私の、誕生日。
「お兄ちゃん……さっき、私にも見えた気がしたんです」
声がふるえた。
必死の形相を浮かべて、こちらに手を伸ばした兄の顔。
我に返る寸前、声にならずたち消えた「お兄ちゃん」という声を、なぜあと少しだけ頑張って出さなかったのか。私は受け取ったビニール袋に涙を落とす。
けれど男はあっけらかんとした声色でいった。
「かっこよかったでしょ。こんなに経ってもなお妹を助けようとして」
「──自慢の、お兄ちゃんなんです」
でしょうねえ、と男はふたたび私の手から袋を取り上げて、中に入っていたアイスを取り出した。包装を丁寧に剝いたイチゴアイスを渡してきながら、
「でももうそれも最後。わかりますよね」
と男がわらう。
チョコアイスの包装は乱雑に剝いて、仏壇にかかげた。
じーわじーわ。ジジ。
蝉が、鳴き止んだ。
食べましょ、と男はいった。
私はイチゴアイスをひと口食べて、堪えきれずに泣いた。
──今日は私の誕生日。
二十回目になる、私の。
────。
──。
「りっぱなレディでしたよ」
玄関を出る間際、男がいった。
「二十歳のね。まあ、変わらずイチゴアイスは好きだったみたいだけど」
男の手に握られた十四年前の新聞記事。『空き巣狙いの強盗殺人』──と大きく書かれた見出しに、胸がちりりと痛む。
「…………」
「彼女のとこのヒイラギ、壊してきましたから。イチゴアイスも食べて未練もないし、もう何処にでも行けるはずですよ。──家を、取り壊す前でよかった」
男が見上げた和風家屋。
人が住まなくなった家は、たった数年もしないうちに瓦解寸前の様相を帯びる。
それと、と思い出したように、
「自慢のお兄ちゃんですって。かわいいもんじゃないですか」
くっくっと男がわらう。胸が詰まって、うつむく。喉からしぼるように出したことばは掠れてしまった。
「自慢の、妹でしたから」
「そうでしょうとも」
最後、男はこちらに一礼をして立ち去った。
男のすがたが見えなくなってまもなく、蝉時雨がふりそそぐ。
今日は、妹めいこの誕生日。
そして──命日である。
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