挑戦と現実

2/2
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
 母親に見送られて家を出た。今日の為に拵えたスーツは、身も心も少し窮屈にする。だが、自分が急に大人びたような感覚に、小さな高揚感も覚えた。  緊張感で景色が違って見える。具体性は見出せないが、どこが全体が澄んでいるような、そんな錯覚に囚われた。  眺めながら、以前味わった人生最大の衝撃を思い起こす。その時は、世界がすり替わったかのような感覚に狼狽したものだ。  ――目的地へは、電車を乗り継ぎ向かう。平日の昼前だからか、客層は老人や女性が多く感じた。またはスタイリッシュにスーツを着こなす会社員か。自分が場違いであるような錯覚に襲われたが、浮いてはいないはずだと心を切り替えた。    会社の広大なエントランスには、人が多くいた。忙しく働く姿が魅力的に映る。仲間に加わる想像を働かせ、担当者を待った。  不安や恐怖は少なからずある。しかし、一歩踏み出せた満足感と変化への期待が、明るい未来を描かせているのも事実だった。  ただ、どうしても引っ掛かるのは、やはり年齢だ。母親は仕方がないと言ってくれたが、どうしても知識が不安を煽ってきた。  一般的には、家庭に入らないほとんどの人間が、二十代で仕事を経験していると聞く。むしろ年を重ねても職のない人間はニートと呼ばれ、あまり歓迎されない存在になってしまうようだ。  仕方がない事情があるとは言え、僕も該当しているのだと思うと軽視できなかった。 「面接の方ですね」  後方からの低い声に振り向く。いたのは、五十代くらいの男性社員だった。表情に活気がなく、見るからに険しい顔をしている。瞬間的に空気を悟り、底知れない畏れが沸き上がった。  だからと言って、何か出来る訳ではない。僕はただ、案内されるまま部屋に入った。    広い空間にたった二人――逃げ場を失ったような錯覚に足が震える。鎖で椅子に固定されたかのように、簡単な動作一つ制限されてしまう。  面接官は不機嫌そうに僕を観察し、渡しておいた履歴書を開いた。  紙の中に集約された人生を追想する。本当に様々な苦難があった。その片鱗を覗かれていると思うと、不思議な気持ちになった。僕の人生を前に、彼は一体何を思うのだろう――。 「君って確かバイトで応募してきたよね?」  不意に声を掛けられ、狼狽える。瞬間的に脳で組み上がった返事は、時差で口から零れ落ちた。 「…………は、はい!」 「この感じだとバイト経験すらないって感じだね。そんな年になるまで一体何してたの?」 「……え、あ……あ」  対面時よりも濃く、空気が淀んでいる。あからさまな禍々しさに、現実の厳しさを突き付けられた。頭で完成させた答えは中々言葉に変わらない。器用に動かない唇がもどかしかった。  面接官は待つ余裕すらなかったらしく、睨んでいた履歴書を置く。それから深い溜め息を吐いた。 「不採用」 「…………えっ」  淡々と告げられ、唖然とする。描いていた未来は壊され、現実しか見えなくなった。  懸命に認めた履歴書は、恐らく半分ほどしか役目を果たさなかったのだろう。肝心の部分には目を向けられていないようだった。  だったら言葉で説明しなければ――そう考えはするが、僕が必要とするだけの隙を、面接官は与えてくれなかった。 「僕さ、そういう甘っちょろい人間って好きじゃないんだよね。他人に頼りっぱなしって言うの? 何してたのか知らないけど、その年で初めてとか恥ずかしくないの?」  羅列される容赦ない意見が胸を抉る。面接官は相当許せないのか、次々と捲し立てた。以前にも似た経験はあったが、これほど直球でぶつかられたのは今回が初めてだ。世間の恐ろしさが身に染みる。  その後も弁解の余地は与えられず、望まない結果に終わった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!