冬の富士

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 今日も富士山が美しい。  そんなことを言えば、富士が俗だと言った太宰治に軽蔑されるだろうか。国語の授業で富嶽百景を読み込んだばかりだからか、そんなことを思ってしまう。静岡市内だが、毎日飽き飽きするほど見てきた富士だ。今更美しいだとか綺麗だとか、観光客ほど見入る訳でもないが、ふとした時に思うのだ。美しいと。  生活の中の富士は、あまりにも雑に扱っているような気がする。初冠雪の日ですら、もう少し暑さがマシになるといいな、としか思わない。  最近は、富士の真っ白な白粉に見合って、凍えるほど寒い。寒くても、静岡市は山岳地帯以外で雪が降ることなんて滅多にない。あったとしても、風花が舞うくらいだ。山の方から雪雲が風で運ばれて、チラチラと目を凝らさなくては見えないほど小さな氷の塊が降ってくる。例え、手を伸ばして触れようと試みても、その手に残るのは、小さな水の玉だけだ。小学生の頃は嬉しくて仕方がなかった。  夏は涼しく、冬は暖かいと評判のこの土地でも、今日は流石に寒いようだ。東京で大雪が危惧されるような日。高校へ行く時はいつも暖かくなる肌着の上にワイシャツにカーディガン。スカートの下にハーフパンツ、黒タイツ。手には手袋。首にマフラーを着るだけの格好だが、今初めてコートが欲しいと思った。  交差点での信号待ちも地獄のような寒さに耐える。手足の指先の感覚がほぼ無いに等しかった。まだかまだかと信号機を見上げた時、目の端に富士がちらりと写り、気になりそちらの方を見た。眩しい。思わず顔をしかめた慣れて慣れて、再び富士の方に顔を向ける。白い。白過ぎて目が痛い。ギラギラと光っている。きっと、あの場所では未だ見ぬ銀世界が広がっているのだ。宝永山もすっぽりと雪を被っていた。しかし、綺麗とは思わなかった。豊臣秀吉の茶室や鹿苑寺の金閣を見ている時と同じ気分だった。何だか、やり過ぎというか、度を超えているというか。ただ、冬の厳しさだけを見せられたような気持ちだ。  廊下は寒いが教室は暖かい。朝のSHRまであと十分か。  「太宰は山梨側の富士の話しかしてないからどうしても納得いかない」  私の高校からの友人がそう漏らした。椅子に座り、足を組む彼女の足は白い。「またその話?」と私は悪態をつきながらも、そうだよな、とも思っていた。  「だってさ、山梨から見る富士と静岡から見る富士って違うじゃん。静岡からだと宝永山が見えてさ、雪も積もりにくくてって」 「静岡県民が富士山を描くと必ず右側がボコって出っ張る。それが宝永山」 「えっ、そうなの?」  そうか、東京から中学卒業とともに越してきたという眞由美(まゆみ)は知らないのか。  「どうしてそうも富士山に愛を持ってるの?」  何故なのだろうか。  「だって、せっかく静岡県民になったんだもん。富士山を心行くまで愛せたらいいじゃない」  変わってる子。太宰の言葉を借りれば、おかしな娘さんだ。反俗的かどうかは別にして。富士山は自分たちの県のものだと言い張る癖に、富士山に毎日感化されている訳でもなく、ただぼーっと眺めているだけなのが静岡県民だと思う。それはもう富士ではなく、ただの景色なのだ。  「さつき、雪!雪が降ってる!」  窓の外を見つめると、大きな牡丹雪が空から舞っていた。風花ではない。雪なのだ。こうもはっきりと降っている。私は真白なその手に引っ張られ、渡り廊下まで連れていかれた。屋外の空気は肌を刺してくる。凄い。綺麗とか、もうそんなんじゃない。とにかく凄い。それ以外言葉が無い。  「ねえ、雪ってこんなにも綺麗なんだよ」  あたかも自分のもののように言うので、驚きで強ばっていた頬も緩んでしまった。私は眞由美に向き直る。  「眞由美、君って雪の精だったりする?」  友人はストレートの長い黒髪を揺らして首を傾けた。目が丸い。  「冗談だよ。真に受けないで」 「それって私がそれくらい美しいってこと?」  今度は嬉々として聞いてきた。  「さあ、それはどうだろう」  眞由美は残念そうな顔をしたが、再び雪を見続けている。  放課後も雪が降り続いていた。二センチメートル近くまで積もっている。大記録である。  図書室で本を読んでいると眞由美が声をかけてきた。  「雪、止まないね」  向かいに座ってきた。  「好きだよ、さつき」  どこを読んでいたのか忘れてしまった。それでも平静を装って本から目を離さない。甲府にいる結婚相手に会いに行った太宰はこんな気持ちだったのかもしれない。ここに助け舟を出してくれる井伏鱒二はいない。  「それで?」 「え?」  眞由美は素っ頓狂な声を出す。  「言うことそれだけでいいのかって」 「その、恋愛的な意味で、だよ?私たち女どうしだよ?」 「私のことが好きと言った君がそれを言うかね」  私はやっと本から顔を上げた。一生涯の友人かな、と思っていた相手は顔を真っ赤にして涙目だ。  「付き合ってくれなくていいから、ずっとそばにいて。恋人にならなくていいから」 「ごめん、それは約束できない」  彼女は更に顔を赤くした。顔面から火が吹き出そうだ。  雪に心動かされて告白するのは俗だが、本を真剣に読んでいる相手に対して告白は俗ではない気がする。恋人にならなくていいは詭弁だ。  それにしても、私にはもったいないお誘いだ。東京から越してきた、明るく友人も多い美少女が、根暗な二次元の美少女が大好きで百合と薔薇をこよなく愛する私に告白とは、世の中捨てたものじゃないらしい。恥ずかしくて堪らないだろうに、私と目を逸らさない。その真っ直ぐで危うい純粋さが美しい。好きだ。  正直、彼女に好かれて嫌な気になるわけがない。しかし、ずっと一緒にいることはできない。将来、目指すものがきっと違う。生きたい大学や専門学校や就職先が違う。きっと互いに遠い場所になる。他人のために生きたことがないからわからないが、その人ひとりのために進路を変えられるものなのだろうか。  彼女の申し出は、十六の私には重すぎる。しかし……。  「けど、一緒にいたい。生涯を添い遂げる相手が眞由美だったら、私も嬉しいよ。私たちはまだ十六なんだから、一生なんて言ったら駄目だよ。ゆっくりでいいんだ、ゆっくりで」  そう。ゆっくりがいい。その方が私の性には合っているから。しかし、眞由美は?  「前言撤回。やっぱお付き合いしてくれませんか?確かに、一生は気が早すぎたかも。けど、付き合ったら絶対に離してやらないから」  どうやらせっかちのようだ。そういう言い方は少し意地悪だろうか。私は、愛されているのだなあ。身体がぽかぽかする。  「それはちょっと困るから考えさせて。それに、私は眞由美を恋愛的に好きだと思ったことないから」 「いい返事貰える流れじゃなかった?」  もしかしたら一生涯の恋人となる相手は笑い出した。私もつられて笑った。図書室に私たち以外誰もいなくてよかった。  帰り道、眞由美があまりにも熱心に富士を見つめるからか、富士も真っ赤になっていた。やはり今日の富士は眩しい。しかし、今は綺麗だと思う。すると眞由美が強風に声をかき消されないよう大きな声で、  「静岡の富士は、これでも、だめ?」 「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ」  私もつられて大きな声で答えた。  やはり富士は綺麗で偉い。
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