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 放課後のがらんとした教室の、窓側から二列目の後ろから二番目。俺の席に突っ伏して眠る幼馴染みの金髪が、西日を透かしてきらきらと輝いている。 「カナタ、起きろ」  頭を小突いてやると、んー、とぐずるように唸っていたが、やおら顔を上げ、にっと笑う。 「……おはよ、シュウト」  寝ぼけた挨拶に、俺はもう一度、カナタの頭を小突いた。 「おはよ。先帰れって言ったろ」 「帰ってもやることないし」 「バイトは?」 「今日はない」 「あっそ」 「ねー、シュウト」  肩に担いだリュックが引っ張られるのに、幼馴染みを振り返る。 「なに」  ぐっとこちらを見上げたカナタが、屈託のない笑みを弾けさせた。 「今日、三年の先輩に告白されたでしょ」 「見てたのかよ」 「俺が見たわけじゃないけど。うちのクラス、昼休みはそれで持ちきりだったよ。付き合うの?」 「付き合わない。お前こそチア部の子、どうなったの?」  揶揄われてはたまったものではないと問い返すと、カナタは胸元で小さくピースサインを作り、またにっと笑った。 「土曜日一緒に遊ぼうって」 「やるじゃん」 「まー、みんなで、だけど」  カナタはいたずらにピースサインの人差し指と中指をうごめかせていたが、次にその指で俺の背中をつつく。 「シュウトは、好きな子いないの?」 「いるよ」 「俺の知ってる子?」 「さあ、どうだろ」 「ごまかすなよ」 「ごまかしてない。お前とそういう話すんのが嫌なだけ」 「うわあ、子供っぽお」 「どっちが。それより、今日の病院」 「あ、うん」 「どうだった?」 「どうって……いつもと同じ。いつもとおんなじこと聞かれて、いつもとおんなじこと答えて」 「そう。ま、帰ろうぜ」 「うん」  カナタが病院に行く毎月第三水曜日以外、俺たちは毎朝一緒に登校し、カナタのバイトがなければ俺が委員会で少しくらい遅くなっても一緒に下校する。  カナタは幼馴染みだが、血の繋がらない弟のような存在でもある。ぼんやりとした比喩などではなく、カナタの家庭はよくニュースのトピックになる類いの複雑さで、中学二年生の途中から彼は俺の家で暮らしているのだ。  周囲の視線に関わらずカナタはいつも明るく、輪の中心にいた。家でもそれは変わらず、両親と祖父母、そして俺とカナタで囲む食卓の中心は、いつもカナタだった。 「今日ね、シュウト告白されてたよ」  白米を両頬に押し込むように食べながら、プライバシーもなにもない暴露が行われる。 「お前なあ、言うなよ」  お前も隅に置けないな、などと機嫌良く笑うのは祖父で、俺がお前らの頃はと真偽不明の自慢話を始めるのが父。それをたしなめるのが母で、祖母はこういう時、ただにこにこしている。 「モテるんだよ、シュウト。背が高くてかっこいいし、勉強できるし」 「勉強できたって、こんな無愛想じゃしょうがねえな、シュウトは」 「うるせーな」 「そこがかっこいいんだってさ」 「カナのほうがモテるだろ。元気があって、シュウトと違って笑顔がいい」 「俺の唯一の取り柄だもん、それ」  指先で頬にえくぼを作ってカナタが笑うと、父も祖父も、母も祖母も笑う。  明るく輝く、カナタは太陽のような存在だった。  年子のふたりの兄がほとんど同時に家を離れたおかげで、高校生になると俺たちには自分の部屋が与えられることになった。欲しくて仕方なかった自分だけの部屋だというのに、結局いつも、部屋を隔てる襖は半分開けっぱなしで、俺たちはたいてい一緒にいる。  三番目の兄貴が残した大きなクッションに埋もれていたカナタが、顔を上げる。手にしたスマートフォンからはひっきりなしに通知音が鳴り、ちらりと見えた画面ではグループトークが盛り上がっている。俺たちはそれぞれ別の友人グループに入っていて、幼馴染みでなければきっと、ほとんど接点もないまま卒業していたと思う。 「シュウト、宿題は?」 「終わった。お前は?」 「あそこ」 「場所を聞いてんじゃねーよ」  机に広げたノートを指差すカナタに呆れると、彼は悪びれずにいひひと笑う。 「あとで教えて」 「おー」  ポコン、と、カナタの手のなかからまたトークの通知音がする。 「音楽流していい?」 「いーよー」  上の空で返事を寄越すカナタの横に座り込んで、リストのなかを探す。少しさかのぼって見つけたそれを再生すると、軽やかなイントロが流れ始めた。 「……これ好き」  ひそめるように静かな声が、不意に隣から聞こえる。 「知ってる」  最近ふたりで聞いて気に入った、よくよく歌詞を聞けば女々しいラブソングだが、爽やかなポップスだ。横目に見る彼の明るく人懐っこい笑顔は消えており、暗がりに目を凝らすように、じっとこちらを見つめてくる。その茫洋とした瞳にゆっくりと焦点が定まり、薄く開けた唇の隙間から、静かに俺の名前を呼ぶ。 「シュウト」 「……おはよ、」  カナデはうっとり笑うと、甘えるように、俺の肩に頭を乗せた。  潰れかけのおんぼろ工場と、敷地内に建つおんぼろの家が恥ずかしかった。歩くだけで床板の軋む木造の家には家族がぎゅうぎゅうにひしめいていて、両親と祖父母、一番上の兄貴とその奥さんと赤ん坊、二番目と三番目の兄貴は年子で毎日殴り合いの大喧嘩、自分の部屋などない俺はいつも居間でチャンネルの主導権などあるわけもないつまらないテレビ番組を横目に宿題をやっていた。  狭い道路を挟んだ向かい、我が家に劣らずおんぼろなアパートにカナタが引っ越してきたのは、俺たちが十歳の時だった。  季節外れの転校生はすぐに新しいクラスに馴染み、いつも友達に囲まれていた。そのくせ、方向が同じだからと俺と一緒に登下校する時だけは、なぜかいつももじもじと恥ずかしそうで、俺が話しかけなければほとんど何も喋らなかった。いつも頬を真っ赤にして、一生懸命言葉を探していた。俺は、ふたりでいる時の彼のほうが好きだった。  向かいのアパートの二階からは、夕方になると決まって男の怒鳴り声が響くようになった。カナタのアル中の父親は、酔っ払っては息子に手を上げていた。  俺はいつからか放課後にはカナタを家に連れ帰り、俺の母親は毎日食卓にひとりぶん多く茶碗を並べて、カナタを風呂に入れてからアパートに帰した。  カナタの家の噂はいずれ近所に知れ渡ることになり、児童相談所の職員も何度となく訪れていたらしい。初めてカナタが保護された時は子供心にほっとしたが、すぐに連れ戻されてしまい、またすぐ怒鳴り声が響くようになった。  十三歳の冬――真冬の真夜中だった。カナタは数日前から風邪で学校を休んでおり、見舞いに行った俺は開かない玄関を前にすごすご引き返したのだが、その晩はどうしても心配で、夜中にもう一度アパートを訪ねた。玄関の前には、裸のカナタが倒れていた。駆けよって触れた肌はやたらに熱く、びっしょりと濡れていたのは汗ではなく父親に水をかけられたせいだったとあとで知った。 「恥ずかしいよ」  抱き上げた俺に彼が最初に口にしたのは、そんなせりふだった。  俺たちの身体は少しずつ大人になっていて、いくぶん小柄なカナタも例外ではなかった。薄暗い外灯の下で思わず凝視した彼の臍下に、しっかり毛が生えそろっていたのをよくおぼえている。は俺の腕のなかで、寒い、と繰り返しうわごとを呟いていた。ひどく熱く、小刻みに震える身体を抱きしめて、俺は泣くまいと努めながら、同時に勃起していた。  彼のなかには、ふたりの人間がいる。明るくて誰からも好かれるカナタと、引っ込み思案でひとりぼっちのカナデ。どんなに辛いことがあっても笑っていたカナタと、誰にも知られずに泣いていたカナデ。  最近ではふたりきりで部屋にいる夜にだけ、こっそり現れるカナデ。  物静かで、恥ずかしがり屋で、女々しいラブソングが好きなカナデ。  カナデの手から奪い取ったスマートフォンを布団の上に放り投げ、手を繋ぐ。温かくて、少ししっとりしている。 「シュウト?」  カナデのふにゃりと柔らかい金髪が、首筋をくすぐる。少し首を傾げる俺と、顎を上げるカナデの距離が縮まり、唇が重なる。  ちゅっと小さく音を立てて離すと、カナデは頬を真っ赤にして、唇を手で隠してしまう。 「……だめだよ」 「なんで?」 「恥ず、かし」 「――かわい」  俺はたまらずにカナデを抱きしめて、今度はその頬にキスをした。  ポコン、ポコン、トークの通知音はやまないが、俺たちには関係ない。  腕を撫でれば追いかけるように彼のてのひらが重なり、ふふふっと笑って痩せっぽちの身体を悶えさせる。 「……くすぐったいよ、シュウト」 「くすぐったいだけ?」 「……いじわる」  カナデの身体には、見えるところにはひとつも傷跡がない。特にひどい煙草の跡があるのは足の裏と脇の下で、火傷のせいで脇毛がまばらなのをカナタは気にしている。  首まで真っ赤にしたカナデの、浮き上がった背骨に唇をつける。  快さそうなため息が、静かに漏れる。 「なあ、カナデ」 「うん?」 「絶対、迎えに行くから」 「……うん」  彼の手に、ぎゅっと、力が入る。  カナデが安心して出て来られるような世界にしたい。  俺が医者になれば、それとも早く金を稼いでふたりで暮らせば、それともあっさり死んだカナデの父親を地獄で殺せば、叶えてやれるのだろうか。 「待ってる、シュウト」  太陽の光を照り返して夜空に浮かぶ、カナデは月のような存在だ。  大切なカナデ。俺の初恋のひと。   「シュウトお、カナちゃん、いいかげんどっちかお風呂入ってえ」  階下の母親に風呂を催促されるまで、俺たちはキスをした。
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