幻想のあの場所で

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幻想のあの場所で

 深々と降り積もる雪の中、俺は一人で雪原に足跡を残す。  体を芯まで冷やす北風の元、日が沈み暗くなった闇夜に銀世界が顔を覗かせる。 「これはマズイかもな……」  隣町からの帰り道、雪で鉄道が止まった際の選択を間違えた。  まだパラパラと舞う程度だった粉雪が、まさかここまで大雪になるとは思わなかった。  この程度だったら……そう思って歩いて帰ろうとした結果がこの始末だ。 「最後に言葉を交わした相手が、売店のおばちゃんというのは笑えない」  足首を越えるほどに積み重なった雪はいよいよ吹雪となり、白い死神となって憐れにも無人の雪原を行く俺に襲い掛かる。  見渡す限り銀世界。  どんどんと下がっていく気温に、吐く息は白く手足の感覚が無くなっていく……。 「なんだあれは? こんなところに明かり?」  朦朧とし始めた意識の中、前方に浮かぶ明かり。  遠目に見えるそれは、その規模から旅館のようにも見えた。  赤い瓦屋根が特徴的な小さな旅館……。 「何もないことで有名なこの平原に旅館? 冗談がキツイ。俺もおかしくなったか」  口ではそう言いつつも、いま俺が助かるためにはあの明かりの元に向かうしかない。  怪しく思いながらも、藁にも縋る思いで光り輝く旅館の入り口を叩く。  反応がない。  しかし凍えてしかたがないので、黙ってドアを開き中に入った。 「おじゃましまーす」  玄関で靴を脱ぎ、中へ上がる。  旅館は真っ暗で人の気配が一切しない。  それでも雪は防げるし、風に晒されることもない。 「外の明かりは点いてるのにな……」  どう考えても普通ではない。  だが背に腹は代えられない。  いまここから出てしまったら、待っているのは確実に死だ。 「誰かいませんか~?」  俺はこの暗い旅館を、壁伝いに探索する。  せめて何か食料を見つけないと厳しい。隣町に荷物を届けに行って、休憩もとらずにいたせいで朝から何も食べていない。  死因が凍死か餓死か……。流石に餓死は無いにしろ、こうまで寒いと空腹がより際立ってしまう。 「いらっしゃいませ」  突如背後から聞こえた声に体が固まる。  後ろはすでに調べた後のはず。当然人の気配などなかった。  その背後から声がかかるとは何事だろうか?  背後から届いた声は若い女性の声。  旅館なのだから女将さん?  仮にそうだとしても、幽霊か妖怪の類に違いない。 「一晩泊まりたいんですが」  俺は後ろを振り向かずに答える。  妖怪や幽霊だった場合、相手のルールに従った方が無難だろう。  変に騒ぎ立てるのは逆効果、死を意味する。 「当旅館へようこそ!」  背後の女将さんがそう言った瞬間、旅館の内部が一斉に明るくなる。  今立っている廊下が煌々と照らされ、さっきまで埃を被っていた手すりや棚が、一瞬で手入れの行き届いた旅館のそれに様変わりした。    女将さんは俺の前に回り込み、一礼する。  とても整った端整な顔の女性だ。  着物にも皺ひとつなく、まるで卸したてのようだった。 「こちらへどうぞ」 「ありがとうございます」  女将さんは俺を突き当りの部屋へ案内する。  部屋の中から暖かい明かりが漏れ、廊下の木目を照らす。 「失礼します」  失礼します? なんでだ?  女将さんは何故か、無人のはずの客室に声を掛ける。 「ああ。良いぞ」  中から聞こえたのは成人男性の声。  しかも敬語ではなく、崩した返事。  とても一泊しにきた客と女将の関係とは思えない。  そもそも旅館で相部屋なんて聞いたことがない。 「ちょ、ちょっと!」 「さあこちらへ!」  オロオロする俺を、女将さんは信じられない力で部屋に押し込んでいく。  しぶしぶ襖を開けた先には、どこか俺に似た男が畳にどっしりと座り、首から銀の鍵をぶら下げ、日本酒らしき瓶を抱えていた。 「相部屋お願いしても?」 「ああ構わないさ。さあ、兄ちゃん座りな」  酒瓶を抱えた男は、女将さんの申し出に快く応じて、俺を隣りに誘う。 「ではお夕飯持ってきますから」  女将さんはそう言って部屋から退出した。  残されたのは俺と見知らぬ男性。いや、どこか俺に似ているから、見知らぬとは言いきれないか……。 「兄ちゃんは一人かい?」 「ええ、まあ。隣町への配達の帰りなのですが、雪で身動きがとれなくなってしまって……この旅館がたまたま見つかって良かったです」  声をかけてくる男性に、ごく自然と返事をする。  心のどこかではこの状況を異常だと分かっているのに、さらさらと言葉が紡がれる。   「そうかそうか! もうそんなに大きくなったのか!」  男性は愉快そうに、片手で俺の背中を叩きながら豪快に笑う。  酔っているせいか、言っている意味は良く分からないが……。  それでも嬉しそうに、本心から笑っているように思えた。 「お夕食を持ってきましたよ。召し上がってください」  しばらくすると女将さんが、温かい料理を運んできた。  空きっ腹にこの匂いは堪らない。 「お前も一緒に食べようぜ!」  男性は豪快に誘う。  当たり前のように誘う。 「そうですか……そうですね。一緒に頂きましょう」  女将さんは一瞬躊躇した後、意外とあっさり了承した。  それからの時間は良く覚えていない。  とにかく久しぶりに味わった人の情、家族のような暖かみを感じたのだけは良く覚えている。 「もうお開きだな」  あれだけ騒いでいた男性は、酒がまわったのか頬を赤らめ、やや名残惜しそうに俺の頭を撫でる。 「もう……大丈夫だな」  男性は涙を流しながら、そう呟く。  その隣では女将さんが、笑っているような泣いているような、なんとも言えない表情を浮かべていた。 「一体どういう……」  俺がそう言いかけたとき、急に四方から眩い閃光が差し込み、やがて客室一杯に溢れる。  全身を包む明かりが、俺の胸を熱くする。  本当の温度ではない。  今までどこかポッカリと穴の空いた俺の心に、光がじっくりと染み渡っていく……。  気持ちの良い光。  俺を優しく包む光。  ここは雪原の幻覚の中。  お迎えが来たに違いない。  俺は覚悟を決めて、こちらをじっと見つめる二人に手を振り、ゆっくりと目を閉じた。 「何がどうなった?」  俺は地面の冷たさに身震いし、目を覚ます。体を起こし空を見上げると、夜明けが迫っていた。  地平線から差し込む光が、俺の顔を明るくする。どこか体温が戻ったような、そんな勘違い。  とりあえず助かったことだけは事実なようだ。  この凍てつく大地に一晩放置されていたにしては、俺の体に異常はない。   「夢ではなかったということか?」  俺は昨晩の旅館を思い出す。  ここにあったはずの旅館。  ここにあるはずのない旅館。  思い出そうとすると、どこか輪郭がぼやけてしまうあの二人。  女将さんと相部屋になった男性。  とても良くしてくれた気がするし、どこか懐かしい気にすらさせられた。 「いつまでもここにいたら本当に凍え死にそうだ」  俺は考えるのを止め、足を動かす。  歩くたびに降り積もった雪の結晶が壊れていく音がする。    歩を進めるたびに、昨晩の記憶が抜け落ちていく。  次第に不透明になっていく記憶の中、輪郭のぼやけた二人の顔がいつまでも脳裏に焼き付いて離れなかった。  あれから数日後。  俺はあの雪原から帰還し、死に別れた両親から残されたこの赤い瓦屋根が特徴的な家で、押入れを漁っていた。  先日起きた奇跡のことを考えながら……。    何故なら知人に先日のことを話した際、奇妙な話を聞かされたからだ。  その知人が言うには、あの平原はつまるところそういう所らしいのだ。  だからこそ、あれほど広い平原にもかかわらず、誰も買い取らない土地なのだという。    神聖なあの平原は、雪の積もる日に奇跡を起こすと言われている。    雪のように降り積もった想いが具現化するのだという。    だとしたらあの日の奇跡はなんだったのだろう?  誰の降り積もった想いだったのだろう?  そう思うと、じっとなんてしていられない。  ただ助かって良かっただなんて笑っていられない。  俺にとって、もしくは見知らぬ誰かにとっての大事な想いなのかもしれないのだから。 「この奥は見たことがなかったな……」  押入れの一番奥、大量に残された壺やら着物やらのさらに奥。  それは小さな金庫だった。  金庫の側には銀の鍵……。  どこかで見た覚えのあるその鍵を、俺はおもむろに手に取る。  錆びついた金庫の鍵穴におそるおそる鍵を差し込む。  かちりと音がして、案外素っ気なく開いた。  中には一冊のアルバムが大事そうに保管されていた。  まだ雪の止まない冷え切った空気の中、俺はそのアルバムをゆっくりと手にとる。  アルバムを開いた瞬間、朧気になっていた先日の奇跡の内容が徐々に呼び起こされる。    頭の中に蘇る赤い瓦屋根が特徴的な旅館。  あれは”この家”ではなかったか?  相部屋になった男性の首からかかっていた銀の鍵……。  あれは今俺が手に持っている鍵ではなかったか?  そして輪郭しか記憶に残っていなかったはずの、二人の顔がありありと浮かんでくる。  新しい情報として、俺の目を通して惜別の記憶に宿る。  ああ……そうだ。  俺が誰かを強く思うことなどない。  降り積もる想いなどあるはずがない。  俺の両親は、俺が物心つく前に他界している。    そのまま塞ぎこんで育った俺は、家族もいなければ友人もいない。  誰かに対して降り積もるほどの想いなど抱くはずもない。  だったら先日の奇跡は誰の想いだったのか。  簡単なことだった。  答えはこのアルバムの一枚の写真にある。 「お父さん。お母さん……やっと、会えたね……」  記憶の中に浮かぶ両親の笑顔は鮮明に映る。  しかしそれとは対照的に視界は滲む。  手元の写真の二人は笑っていて、あの日の奇跡の中のようで……。  あの奇跡は二人の降り積もった想いだったのだ。    残してしまった一人息子である俺に対しての想い。  それが奇跡という形で、奇跡を具現化するあの場所で、降り積もった想いがあの幻想を生んだのだ。 「本当に……会えて良かった……俺は生きるよ。強く生きる」  俺は目元の涙を拭い、アルバムをそっと胸に抱き目を閉じた。     雪と共に想いが降り積もる
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