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本編
兄弟そっくりね、と言われたのは兄の隆一がランドセルを背負う歳の頃までだ。男兄弟の4歳差というのは必要以上に大きく体格に差を作るらしい。
俺の遅かった成長期とも被るロングランの成長期によって、その差は狭まることを知らず今に至る。
今年で二十歳を迎える隆一は2メートルにギリギリ届かない長身と部活にサークルと鍛え続けた筋肉質のお陰で、街を歩けば振り返られるくらいの体格に育った。美男美女夫婦と持て囃される両親から受け継いだ血は色濃く容姿に現れ、加えて元来落ち着き払った寡黙な性格をしている。顔も性格も申し分ない男だ。
数年前から未成年とは思えない貫禄を放っているし、それも年々増している。両親の期待のみならずその場にいるだけで周囲からは勝手に期待され、その期待に応え続ける男だ。
しかし、正しさと優しさはイコールで繋がれていない。たった今俺はそれを体感している。
身長差は20センチを超えていて、年は4つ離れている兄。その上昔から続けている柔道では負け無しだ。そんな男から、例えば壁際に追い込まれたりしたら本能的に危険を感じる。たとえ血の繋がった兄弟でも身を竦む思いをするのは仕方のないことだ。
「昴」
低い声で名前を呼ばれ、思わず肩が震えた。
「顔を上げろ」
「……ッ」
高圧的な物言いに何も感じないわけではない。ただでさえ箸が転がるだけで腹の立つ思春期に、口の中では「兄貴のくせにうるせえな」くらい言っている。
焦れたようにもう一度名前を呼ばれ、そろそろと顔を上げた。つま先しか見つめていなかった視界が開かれる。左右には閉じ込めるように壁をつく太い腕、視界の大半を覆う黒い影、隆一越しに見る廊下の照明。
「俺がどうして怒ってるのか、わかるな」
「はっ……知らねー」
嘘だ、わかっていた。成績不振で学校から保護者に呼び出しがあり、先ほど居間で声を荒げる母を逆に怒鳴り返して暴れたからだ。
暴れたと言っても母に直接暴力を振るったわけではない。けれど出来立ての唐揚げや味噌汁が盛られた食器をひっくり返したのは、隆一にとってすれば暴力と変わりないだろう。だからこうして玄関へと向かった俺の肩を掴んで壁へと押し付けたのだ。
「全く、最近のお前の態度は目に余る」
「…………」
「何か言ったらどうなんだ」
いつだってこいつは良い子で、正しいものだけを選んで生きている。
兄弟そっくりね、とは言われなくなった。代わりに聞くようになった言葉は「お兄さんは真面目なのに」だ。お陰で俺は間違えてばかりだ。正解じゃなくても間違いではないと信じて選んだ答えも、こいつと比較されれば全て不正解になる。
兄と比べる言葉を聞きたくなくて高校はランクを落とした。兄の出身校は地元のトップ高で、何も知らない他人は勝手に「同じところに行く学力が足りなかったからだ」と噂した。同じ首席で入学しても、二番手の1位と一番手の1位は同じじゃない。周囲が同じとして扱わない。途端に勉強はやる気をなくした。主将だった兄に倣って始めた部活も、勉強と同じくすぐに辞めた。
わかりやすい反抗期、わかりやすい動機。冷静な頭で感情を制御しきれない若さはどんどん俺の心を狭量にした。わかっていても、自分で自分を止められなかった。
「その格好が許されるのは成績のお陰じゃないのか?」
「……うるせーよ」
髪を染め、制服を着崩し、ピアス穴を開けた。それでもお咎めがなかったのは単に成績が良かったからだ。学校という場所は実力主義らしい。実にシンプルでよかった。
けれど、俺は凡人だ。いつも必死に努力して兄の一歩後ろを追いかけて来た。努力を怠れば落ちるのは坂を転がるより早い。色んなことに手を抜いて色んなことに手を出した間に俺の立ち位置はどんどん下がっていった。それでも「まだ俺より下がいるなんてやっぱりあの学校馬鹿ばっかだな」と見下す相手には困らなかったけれど。
しかし、徐々に落ち目を見せていた成績は一年の終わり頃にはすっかり入学当初とは反対の落ちこぼれに属していた。
「……そんな成績では俺と同じ大学に来れないぞ」
「はあ?」
腕の中に閉じ込めたまま少しの間沈黙を保ち、ようやく口から出た言葉に目を丸くする。
「そんなの、行くわけねえだろ」
きっと隆一は説教というものに慣れていないのだろう。随分と迷って口から絞り出したようだが、何の説教にも脅しにもならない。お門違いもいいところだ。
体育会系の部活やサークルというのは上下関係や規律に厳しいものだというのは身を以て知っているが、昔から“正しい”隆一は誰からも信頼され好かれていた。鼻につく優等生や正論ばかりを叩きつけるような奴ならば出る杭として打たれても、隆一は諍いを好まず場の空気を読むこともできる。理不尽な物言いをされてもその場で耐えるうちに第三者から庇われるような人間だ。
「…………どういうことだ?」
肩に隆一の手のひらが滑る。そのまま背中を壁に押しつけられた。痛みを感じるほど強い力ではない。けれど、簡単には振り払えない力加減だった。
「あそこは昴が行きたい大学なんだろう?」
「は? なに言って……」
「家から通える国立で偏差値も地元なら一番だ。俺は家から近いだけの場所には興味がなかったし昴ならもっと上を狙えるだろうが、お前が名前を出した大学だから──」
「んだよ、それ……」
なんとなく思い出すことがある。隆一がまだ高校生だった頃、俺がまだ中学生だった頃の会話。俺は中学に上がったばかりの一年生で、隆一は受験生だった。
「昴、大学はどこに行きたい?」……そう聞かれた俺は知ってる大学の名前を答えたはずだ。まだ高校すら漠然と兄と同じ場所に行くと信じて疑わなかった頃で、大学なんて家の近くにある場所しか知らなかった。
「…………」
無表情に固まり見下ろす黒い目が怖いと感じた。強張って動くことのできなくなった身体の代わりに「兄貴、痛い」と言えばようやく肩に押し付けられていた手のひらが離れる。
俺たち兄弟の言い争う声が聞こえなくなったのを見計らって、居間へと続く廊下の扉が少し開く。隙間から母が隆一を呼ぶ声がした。
「もう戻ってらっしゃい、片付けたから。ご飯冷める前に食べましょう」
声は震えていた。少しでも波風を立てないように平生を繕っているのがわかる声だ。きっとどうしたらいいかわからずに戸惑っているのだろう。
こんな母の声を聞くと、昔聞いてしまった言葉が蘇る。
──どうして、お兄ちゃんみたいに出来ないのかしら
「……ッ」
「! おい昴!」
気がつけば力の緩んだ隆一の手を振り解いていた。履き慣れたスニーカーの踵を踏み玄関の把手を握る間に、背中から鋭く俺を呼ぶ声がする。隆一の声に重なって母が隆一を呼ぶ声がした。
後ろは振り返らなかった。きっと誰も追って来ない。いい子の兄が母の制止を遮ってまで追って来るわけがない。そう感じていても走る脚は止まらず、誰もいない公園のベンチに座りやっと安堵のため息が漏れる。
静かな夜の公園は誰も人がいなかった。
滅多に聞かない母の声を荒げる様子、苛立って理性で御しきれなかった自身と俺を見下ろす隆一の瞳。会話。
全部含めてもせいぜい十分ほど前の出来事だ。それが脳裏にこびりついて離れない。
「……くそッ」
隆一を尊敬して慕っていたのはランドセルを背負っていた頃までだ。先に卒業した隆一に続いて黒い学ランに袖を通した頃から、俺たちを比較する言葉が聞こえ始めた。教師から、先輩から、隆一を称賛する言葉ばかり耳に届く。母だってそうだ。お兄ちゃんのときは買い直さないといけなくなって大変だったからとあまりにぶかぶかの制服を拵えられて、伸びはしたが結局卒業まで袖は余ったままだった。
隆一が残した輝かしい成績と比較される三年間を過ごすうちに、段々と、熱が冷めるように憧れや尊敬の気持ちは失せていった。自分にはなれないものだと気づいてしまったから。
これは単に成長の過程であり、子供の夢がプロのサッカー選手や野球選手からより現実的な職業に変化していくようなもの。ただそれらと違うのは、今の俺はサッカー選手や野球選手が憎いということだ。
憎くて怖くて堪らない。側に居たくない。干渉されたくない。その想いは日に日に膨らんでいく。
「どこかあいつの居ない、誰もあいつを知らない場所に行きたい」
こんなことなら全寮制の学校を探せばよかった。家を出たい。もう無理だ。どうしたらいい。次のチャンスは高校の卒業後のことになる。
ふと隆一との会話を思い出す。『あそこは昴が行きたい大学なんだろう?』……そんな訳あるか。あいつと同じところなんて、もう二度とごめんだ。くっきりと跡のついた轍の上を素足で歩かされるような居心地の悪さはまるで自分の存在がないもののように感じて不快だった。
「一度いい成績を修めて、好きなところに行けばいい」
口にするほど容易ではないとわかっているけれど、それしか残された道はないように思えた。今のような適当な成績でなければ母も背中を押して送り出すだろう。文句は言わせない。
きっとそれがいい、これが正解だ。どうして今まで気づかなかったのだろう。
結局追いかけるために優秀であることも、避けるために優秀であることも違うのは得られる結果だけ。過程としては変わりないのだ。
「……あいつを追いかけるのを諦めて、今度は逃げるために頑張ろうなんて」
まるで呪いだと、心からそう思った。
■
「昴が入学して俺が院まで進めば同じ大学に通えると……思ったんだが……」
「高里、それ本当に弟くんと話し合って決めた? 弟くんまだ今年高校に入った年だよね?」
「どうしてお前が昴の年齢を知っている」
「いや高里が入学式の写真自慢してきたよね」
「……そうだったか?」と続いた高里隆一の言葉に男は少々げんなりしたように見えた。だが、隆一の目に映る彼は嫌なものは嫌とはっきり言う性格だ。隆一が世間話の延長に持ち込んだ家族の相談だって、相談そのものが嫌なら早々に話を切り上げている。大人しく聞いているということは相談に乗ってもらえるということだろう。
彼とはただゼミが被っただけの関係だった。しかし何をやらせても優秀な隆一にノートやレポートを見せてもらう内に私的な会話もするようになり、それなりに友好的な関係を築いている。一緒に飲みに行ったこともなければ来年はどの単位を取るのかも知らないのは、友達と呼ぶには少々距離を取った関係がお互い心地よいからだ。
手先の器用さにステータスを全振りしたが故に、隆一は殊の外人間関係には不器用な面がある。人間関係には排他的なところがある彼はこの男を除いて仲の良い相手がいないし、無闇に距離を詰めてくる人間とはそれとなく距離を取る。
それ故にボロが出ない。
今のところ、寡黙でミステリアスなところが素敵と噂されている隆一の中身を知っているのはこの男だけだ。
幼い弟の放った「にいちゃんかっこいい」をもう一度言われたい一心でひたむきな努力を重ねるこの男の、残念なまでのブラコンっぷりを。
「諦めなよ。いくら中学も高校も一緒に学校通えなかったからって」
「いいや、大学生の昴と一緒に通学する俺の夢を止めるな」
「弟くんだってバイトとかサークルで忙しくなるし、そのうち家も出たがるかもよ?」
「絶対に一人暮らしは許さないし一緒に家に帰る。俺ならできる」
「それは高里の努力じゃなくて弟くんの妥協によるんじゃないかな」
そもそも学年が違うし学部も同じとは限らないのだから、生活スタイルを合わせるのは難しい。単科大学であれば敷地内で顔を合わせることもあるだろうが、隆一が籍を置くそこは総合大学だ。敷地も広く、校内でばったり出くわすという可能性も無いに等しかった。
同じ大学にさえ通えばまた仲良くできるという隆一の幻想はおおよそ実現不可能な未来にある。しかし、それが心の支えになっているからこそ早熟で長い反抗期真っ只中の弟との適切な距離を保っている面もある。しかも悪いことに、隆一自身そのことに無自覚だった。
今更確定したと思っていた未来が覆される可能性を感じ、柄にもなく心配事を漏らす程度には動揺している。
「はー、しかしさあ、成績優秀で腕っ節も強くて容姿も完璧な兄……もう存在が嫌味じゃない?」
眉間にしわを寄せた隆一が珈琲を啜り、一呼吸置く。たっぷり6秒の間を置いて缶から手を離した隆一の瞳は平生と変わりない。
寡黙でミステリアスと噂されるその実態は、単にマインドコントロールが並の人間より上手いだけだ。本来はどちらかと言えば熱くなりやすい質で、少しでも弟の理想に近づくように冷静を装ううちにこうした癖がついた。
「顔立ちなら昴のほうが整っているし、まだ幼い分伸び代もある」
「高里と比較して上を行くならもう芸能人とか目指したほうがいいよ。世の為になる」
「そんな浮ついた職業俺が許さん」
「いや有名大学出てニュースキャスターやってるアイドルとかいるからね? 本音は?」
「……俺が耐えられない。あんなにも愛らしく優秀な昴が目立たずに済んでいるのは周囲の目が俺に向いているからだ」
「あはは救えねー」
ケラケラと笑う男に向けられた黒目は先日昴に向けて『怖い』と感じさせたそれよりもずっと鋭く剣呑なものだったが、それでも男が怯むことはない。
弟の話題を振れば二回に一回はこの瞳を向けてしまう。理不尽だとも思うが、わざと煽ることを言っていると隆一は知っていた。この男も結局は友人との雑談として楽しんでいるのだ。
「強くて格好いい兄貴ってそりゃ小学生なら喜ばれただろうけどさぁ……相手が中学生でもそうやって構い倒したわけ? 反抗期にちょっかいかけると嫌われるよ」
「昴は俺のことが大好きだが?」
「高里の弟くん可哀想」
缶を持ち上げたが、中身が空だと気がついて手を止めた。6秒を数える間に隆一の手の中でアルミ缶が歪な形に変わり果てる。
「……昴は今も俺を兄として慕ってくれている」
「あっそ」
男の意識は既に隆一から逸れて、手元のスマホに向いた。似た会話は入学したての頃から今までの二年間に数え切れないほど繰り返したし、終わりはいつも同じところに行き着く。
隆一と彼の間に希薄な友情が続いているのは、彼が隆一の地雷を踏まないからだ。そんなの無理だと笑いものこともなく、軽薄で曖昧な笑いを浮かべてその場を濁すこともしない。
「認知の歪みでも希望的観測でもどっちでもいいけどさ、ちゃんと今の弟くんのこと見て話聞いてやりなよ。理想を押し付けられるのは辛いって高里が一番わかってることじゃん」
隆一自身の納得が得られる言葉はいつも会話の終わりに少しだけ付け足されるもので、それを聞くと隆一も、自分の意固地になっているものが少しだけ軟化するのを感じる。
「お前のその、適切な言葉と距離の取り方はどこで習うんだ?」
「高里の俺へのよくわかんねえ評価なんなん?」
「手放しに褒めている。見習いたいくらいだ」
「ふーん、まあ高里って弟属性っぽいところあるからなぁ」
よしよしと頭を撫でられながら、しかし人のことをまるで歳下のように扱うのは少し納得のいかないところである、と溺愛する弟を持つ高里家の長男は思うのだった。
──
隆一が夜遅く帰宅すると、まだ明かりの漏れる部屋があった。もう日付は変わっていて、この時間なら両親は寝静まっている。道路に面した二階の二部屋は子供部屋が並んでおり、遮光カーテン越しの明かりが見えるそこは昴の部屋だ。
チェーンだけ外しておくように頼んでいた通り、チェーンは掛けられていなかった。鍵を開けて家へと入ると、人の寝静まった静謐な空気が漂っている。あまり大きな音を立てないよう気遣いながら靴を脱ぎ、階段を昇った。
こんな時間に何をしているんだ、早く寝なさい。真っ先に二階へと上がったのはそう言うつもりだったからだ。いくら昴が生真面目で勉強熱心だと言っても、まだまだ子供だ。身体も出来上がっていないし、睡眠が何より大事な時期でもある。
昼のことを思い出して、頭ごなしに否定せず少し自分の経験を交えながら話せば昴も納得しやすいかもしれない。そんなことを考えながら。
──昴、まだ起きてるのか? 俺も昴くらいの歳の頃は闇雲に根を詰めていたが、それでは効率が悪い。今の成績では俺と同じ大学に行けないのではと心配なのもわかるが、まずはゆっくり身体と頭を休めてまた明日頑張ればいいだろう。
よし、これでいこう。強情を張るようであれば力づくになるが同じ布団に連れ込んでしまえばいい。
「昴、」
「──……」
少々浮かれて久し振りに兄弟並んで眠る口実を考えながら扉を開けたのは、その可能性について一切考慮していなかったからだ。少しでもその発想に至れば、足音を消して部屋に近づく真似はしなかったしノックの一つくらいしていた。
「…………」
「………………」
昴はベッドの上にいた。片耳からコードレスのイヤホンが落ちる。夜更けの辺り一帯が静かな部屋で、耳の良い隆一にはイヤホンから漏れる微かな女性の嬌声が聞き取れた。
「……あ、あッ!? ああああに、なっなん、」
お互いが目を丸くして見つめ合う中で、先に硬直が解けたのは昴のほうだった。慌てて右手に持っていたスマホを傍らに置き、両手で剥き出しの男性器を隠す。隆一の視線が注がれていたそこは隠れたが、ずり下がった寝巻きのスウェットからは細い太ももがよく見えた。昴がすぐに下を履かなかったのはしとどに濡れそぼったまま下着を履くのに抵抗があったからで、手早くティッシュで拭う発想に至らなかったのはやはり気が動転していたからだ。
お陰で、実の兄に屹立した性器を目視されることになった。
しかし、気が動転していたのは隆一も同じだった。ただ昴ほど表面には現れないだけで。
「昴、俺も昴くらいの歳の頃は……」
状況に反して隆一の口から出たのはさっきまでシュミレーションしていた台詞だった。
昔からトラブルに強く本番に物怖じしない隆一はただ驚き固まることはしない。
「……俺も、俺も同じことをしたから。だから心配するな、何も恥じることじゃない」
しかし残念なことに、隆一は最終的なリカバリー力はあっても初手は痛恨のミスを犯すタイプの人間だった。
はくはくと顔を真っ赤に染めた昴が口を開閉し、結局何も言わないまま閉じる。怒りか羞恥かそれとも別の感情からか、結ばれた唇はふるふると震えていた。せめて何も言わず扉を閉めて去ってくれればいいのに、それができない兄に言い様のない感情が浮かぶ顔だった。
隆一が己を落ち着かせるため心の中でたっぷり6秒を数える猶予の間に、昴の血管はぶちぶちと音を立てている。手元にあるのがスマホでなければ力一杯投げつけられていたところだ。
「おい早く出て……」
「昴」
昴の部屋は簡素なまでに整頓され障害物がない。狭い子供部屋を瞬きする間に距離を詰め、昴のすぐ目の前に立つ。
名前を呼ばれたことと兄がこちらに向かってくることを昴が認識した次の瞬間には、二人の身体は仲良くベッドの上で横並びになっていた。
「え、なに……え?」
「俺も手伝う」
「は? おい、ちょ、なに言って……ひッ」
大きく熱い何かが昴の性器を覆う。それが兄の手のひらだと気づいたのは握り込まれ、濡れそぼった先端を指で擦られた後のことだった。
「ひっ、ちょ……っと、何して……ッ」
「静かにしろ。母さんが起きるだろう」
「……ッ」
隆一はただ思うことを言っただけだ。きっと昴も好奇心で手を出しただけだろう、こんなことは早く終わらせて眠ってしまえばいい。その手伝いを申し出ただけで、母親に見つかれば気まずいを思いをするという気遣いから来る言葉だった。
残念ながら表情に出ないだけで、隆一はひどく気が動転していたので。
しかし隆一からすれば何の含みもない言葉も、昴からすれば一種の脅迫に聞こえる。こんなこと、同性の兄弟でも家族の目に触れられたくないものだ。それが異性の実親であれば尚のこと。昴を黙らせるために隆一が切ったカードは、一番触れられたくない相手としての最適解だった。
狭いベッドの上で顔を背け身体を捻って逃げようとしたところで、目の前には壁がある。背中を覆う人の熱は兄のもので、それが一層この場から逃げられないのだという意識を与える。
「ふっ……うぅ゛ー……っ」
せめて声を出すまいと必死に唇を噛む昴の下顎を撫で、下顎から血の滲んだ唇を辿る。指に少し力を込めると、こじ開けたそこに自身の人差し指を噛ませた。
「噛むなら俺を……そう、いい子だ」
「んっんん……ッ」
何がしたいのだ、と身体を捻り振り返って疑惑の目が向けたが、それを見下ろす静かな黒目は何も考えを悟らせない。
自分以外の手で、それも自分とはまるで違う大人の手に擦られて絶頂はすぐに訪れた。腰を戦慄かせシーツに縋りつき、兄の指に噛み付いたまま枕に顔を押しつけて身悶える。
それを実の兄としてどんな目で見つめていたのか隆一自身わかっていなかった。
「ひっあ、ああ゛……っ!」
まだ慣れるほどの数もこなしていない自慰の性的快感が脳を貫く。無意識に腰を突き出し性器を手のひらに押し付けて目尻を涙で濡らし、舌を突き出した弟の痴態を隆一はただじっと観察していた。
びゅ、びゅると数度にわけて精液が吐き出され、昴の荒い呼吸だけが部屋に響く。それをぼんやりと聞きながら、押し殺した喘ぎ声が寝静まった両親の寝室にまで届いたのではないかと今更不安になった。
「ん、終わったか……どうした、早く寝ろ」
「…………うるせえ、出てけばか」
口ではそう言うものの、呂律が怪しくなるほどの脱力感と眠気で昴はそのまま意識を手放したのだった。

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