「良妻賢母の勧め(妻編)」

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 お姑と私の固い結束はともかくとして、当の夫との絆は細い糸の様であった。 「はい、お弁当。行ってらっしゃい、気を付けてね」 「あ、ああ」 いつもと同じ会話の朝の出だしの筈が、いつもと同じでなくよそよそしい。 夫に不貞を疑い続けられているからというのではない。 夫からまるで体臭のように滲み出ているのは、猜疑心ではなく罪悪感だ。 ただ、私もどうやって突破口を切り開けばいいのか分からなかった。 ――罪悪感を抱いているなら、さっさと謝ってくれればいいのに……。 内心では口を尖らせる。 けれど、夫が妻に殊勝に謝って来るような男ではないと、知って随分なほどには長い結婚生活だ。 ――『男の沽券にかかわる』って、本当に大変ね。 そう心に折り合いを付けて、私は夫に向かって手を広げた。 これまでずっと繰り返して来た『行ってらっしゃい』のハグを求めたのだ。  新婚の内ならばともかく、きっとそのうちしなくなるよ。そう、言っていたのは私だ。 『多分ね』と、夫ははにかんで笑っていた。 『だから最初が肝心なんだろう?習慣にしてしまえばいい』 夫は口にしたことを貫くタイプの人間で、その習慣は続けられていた。 これまでハグをしなかった朝は片手で数えられるほど。 それは酷い夫婦喧嘩をした次の日の朝の回数に同じ。 でも、ハグをことは互いに一度も無い。 その度に私は、『今日はしないんだ……』と、心を痛めていた。 そして、玄関の扉を閉めた夫は『ふん、今日はしてやるもんか』と、優越感を抱き、そして駅に向かう歩数ごとに罪悪感を積み上げたに違いない。 ――でなければ、仲直りに至っている筈がないものね。 夫の罪悪感が伝わるから、私はいつも許せるのだ。 「ん、行ってくる」 少しばかりぎこちなく、そして少しばかり安心したように夫は私を抱き止めてくれた。 ほらね? 「はい、気を付けてね」 こんなささやかな温もりに、私は少し泣きそうになってしまう。 そんなこと、きっと夫には伝わっていない。 この一瞬で、私は胸の内に確とある『好き』を実感する。 ギュッともう一度、仄かに夫の背に掌を当てた。 それが伝わっているかどうかなんて、何年経っても分からない。 それに、夫が再び玄関を開いて帰って来ないと、本当の安心なんて得られないのが妻だと、きっと知りもしないのだろう。  私は仄かに笑みを作る。 扉が閉まる間際に、夫は此方を振り返る。そんな夫に向かって、私は手を振るのだ。  これが私と夫の朝のルーティン。 「さぁ、今日もお仕事頑張りますか!」 胸の内に燻ぶるままの不安に蹴りを付けて、私は拳を握っていた。
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