「良妻賢母の勧め(妻編)」

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「ええっ!?妊娠したぁ?」 フロアに響く大声は、私の上司(熟女)であった。  昼休憩に入ったところで、空きデスクの目立つ今だから良かったもののと、小さく嘆息する。 「そんなに驚かなくても……。これってセクハラに入りますか?」 「や、入んないでしょ。細かいこと気にすんな、どうせバレるんだし」 けれど、まだ三か月という不安定な時期なのだ。 もう少し、配慮とか、モラルとか、デリカシーとかそういうのがあって然るべきなのではと、私は口を尖らせた。  上司はずり落ちていた眼鏡を押し上げ、私の下腹部に目を落とす。 「贅肉ないって羨ましいね。そのうち取れなくなると思うけど」 何を見ているのだろうと聞きたい。 「やっぱり、それってセクハラなんじゃ……」 「ないない。だって、私とあんたじゃ成り立たないでしょ?」 肩を竦めて、お次はシフト表に目を移した。 「検診の日、休むんなら赤丸して持って来て。それから予定日と、産休入るタイミング……って、辞めんなよ?」 睨み付けられるも、何だか嬉しくって、私は笑みを零す。 「辞めませんよ。仕事は好きです。辞めたくありません」 「ん、なるべくフォローする。あんた、私が上で良かったね。男じゃ多分、こうはいかないし」 ライバル視している同期のデスクを睨み付けていた。 先月はタッチの差で顧客を奪われたのだ。だからこそ当番でもないのに電話番をしている。 「はい、有難く思います」 私は丁重に、45度の角度でお辞儀した。 「って、あんたヒールじゃんっ!明日からは看護師御用達のペタンコ履いて来なよね」 「は、はい。今日、仕事帰りに覗いてみます」 私がデスクに戻ろうとした時、上司は此方を見ずにボソッと呟いた。 「さっきの、本心だけど。大事な方を選択すればいい。そういう時期ってやつだから」 空手を振って、上司はクライアントからの電話に飛びついた。 憧れて来たその横顔を目に焼き付け、私は踵を返えす。 ――仕事は辞めたくない。 私は下腹部に手を添え、『一緒に闘ってくれる?』と、まだ見ぬ我が子に訊ねていた。
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