「良妻賢母の勧め(妻編)」

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 それはもう恐ろしく辛いと、人伝に聞いていた『つわり』は嘘のように私にはなかった。 「もしかして、本当に助けてくれていたの?」 私は膨らみ始めた下腹部に手を添える。  職場環境にも恵まれ、残業を除外されている分、せめてものと自宅に持ち帰れる書類仕事を片手間に、私は感慨深く息を吐いた。 「私、幸せだなぁ……」 反面で、頭を過るのは夫のことだ。  あれからちゃんと話すことを話せていない。  何となく、何となくのままに済ませてしまって、日常に非日常が入ることを恐れている。  カレンダーに赤い丸を付けているのは検診日。 夫は何も訊いてこないから、私も何となく何も話せていない。 本当は、これからのことを色々話していかなければならない。 でも、その色々が漠然としていて、私自身も上手く呑み込めていない。 出産のこと。仕事のこと。子育てのこと。 不透明な先々への漠然とした不安。 それに何より夫が本当に子どもを望んでいるのか、訊くのが怖かった。  堕胎を望むような薄情な(ひと)ではない。 例えば、不貞により私が身籠っているのだったとしても、彼は『堕せ』などとは簡単に口に出来ない人だ。  私には、彼が私の夫であるという確たる自負があった。   それとは別にしても、彼が『仕方ないからな』と、父親であろうとするならば、それは凄く痛ましいことだった。 「ふぇっ……うっ……ぐすっ」 これが世に言うマタニティブルー? 情緒不安定なのか涙脆くて困る。 ティッシュを探しているところで夫が帰って来た。 「な、何を泣いて……」 「や、ちょっと、色々あって……何でもな――」 私は息を詰めた。  外から帰って来たばかりの、冷たい風の匂いを含んだフェルト生地。 私の背を撫でる優しい手。 「ちゃんと話せよ、どうすればいいか分からないから」  この(ひと)の妻で良かったと、心底思う。 ちゃんと、こういうことを本当に欲しい時にしてくれる。 私のことを見放したりしない。 夫婦とは合わせ鏡だと言うけれど、きっと夫も私と同じように、私に対して思い悩んでいるはずなのだ。 離れたくなくて、私は夫のコートの袖を掴んだ。 今日は猫になってもきっと恥ずかしくない。 それに拒まれたりしない。 「もっとちゃんとギュッとして欲しい」 「……」 夫は流石に気恥ずかしかったのか、押し黙ってしまった。 「――して」 言った手前のくせに、待ちきれなくて夫の腰に腕を回した。 こうしたスキンシップが久しぶりだったせいか、何だかドキドキしすぎて妙な気になって来る。 それとも、ホルモンバランスの影響? 「あなたの子に間違いないもの」 三十五億? 幾らいようと、こんな気持ちになる男がホイホイいるものですか。 私は上目遣いで夫を睨み上げていた。  見下ろす夫は難しい顔だ。 「医者は何て?順調なのか?」 「う、うん」 「五ヶ月に入れば安定期なんだろう?」 よくご存じで。 「障りにならないようにするから」 「へ?」 ムギュッと苛立ったように鼻を摘ままれた。 「お前が煽ったんだから、責任持てよな」 「ふぇ?」 「寒いから風呂場でいいや。沸かしてあるんだろう?」 「さ、先にいただきました」 「話しも聞くから、入って来いよな」 夫から厳命されたことが日常だったか非日常だったかはさておき、いつになく心騒がせたことは言うまでもなかった。
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