50人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
それはもう恐ろしく辛いと、人伝に聞いていた『つわり』は嘘のように私にはなかった。
「もしかして、本当に助けてくれていたの?」
私は膨らみ始めた下腹部に手を添える。
職場環境にも恵まれ、残業を除外されている分、せめてものと自宅に持ち帰れる書類仕事を片手間に、私は感慨深く息を吐いた。
「私、幸せだなぁ……」
反面で、頭を過るのは夫のことだ。
あれからちゃんと話すことを話せていない。
何となく、何となくのままに済ませてしまって、日常に非日常が入ることを恐れている。
カレンダーに赤い丸を付けているのは検診日。
夫は何も訊いてこないから、私も何となく何も話せていない。
本当は、これからのことを色々話していかなければならない。
でも、その色々が漠然としていて、私自身も上手く呑み込めていない。
出産のこと。仕事のこと。子育てのこと。
不透明な先々への漠然とした不安。
それに何より夫が本当に子どもを望んでいるのか、訊くのが怖かった。
堕胎を望むような薄情な男ではない。
例えば、不貞により私が身籠っているのだったとしても、彼は『堕せ』などとは簡単に口に出来ない人だ。
私には、彼が私の夫であるという確たる自負があった。
それとは別にしても、彼が『仕方ないからな』と、父親であろうとするならば、それは凄く痛ましいことだった。
「ふぇっ……うっ……ぐすっ」
これが世に言うマタニティブルー?
情緒不安定なのか涙脆くて困る。
ティッシュを探しているところで夫が帰って来た。
「な、何を泣いて……」
「や、ちょっと、色々あって……何でもな――」
私は息を詰めた。
外から帰って来たばかりの、冷たい風の匂いを含んだフェルト生地。
私の背を撫でる優しい手。
「ちゃんと話せよ、どうすればいいか分からないから」
この男の妻で良かったと、心底思う。
ちゃんと、こういうことを本当に欲しい時にしてくれる。
私のことを見放したりしない。
夫婦とは合わせ鏡だと言うけれど、きっと夫も私と同じように、私に対して思い悩んでいるはずなのだ。
離れたくなくて、私は夫のコートの袖を掴んだ。
今日は猫になってもきっと恥ずかしくない。
それに拒まれたりしない。
「もっとちゃんとギュッとして欲しい」
「……」
夫は流石に気恥ずかしかったのか、押し黙ってしまった。
「――して」
言った手前のくせに、待ちきれなくて夫の腰に腕を回した。
こうしたスキンシップが久しぶりだったせいか、何だかドキドキしすぎて妙な気になって来る。
それとも、ホルモンバランスの影響?
「あなたの子に間違いないもの」
三十五億?
幾らいようと、こんな気持ちになる男がホイホイいるものですか。
私は上目遣いで夫を睨み上げていた。
見下ろす夫は難しい顔だ。
「医者は何て?順調なのか?」
「う、うん」
「五ヶ月に入れば安定期なんだろう?」
よくご存じで。
「障りにならないようにするから」
「へ?」
ムギュッと苛立ったように鼻を摘ままれた。
「お前が煽ったんだから、責任持てよな」
「ふぇ?」
「寒いから風呂場でいいや。沸かしてあるんだろう?」
「さ、先にいただきました」
「話しも聞くから、入って来いよな」
夫から厳命されたことが日常だったか非日常だったかはさておき、いつになく心騒がせたことは言うまでもなかった。
最初のコメントを投稿しよう!