「良妻賢母の勧め(妻編)」

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 初めて試した検査薬。 浮かび上がる陽性を示すブルーラインはくっきりと鮮明だった。 「嘘っ!できちゃった……の?」 喜びに身を任せたのも束の間、私の中で一つの疑問が浮かび上がる。 説明書を事細かに読む。 「誤認ってこともあるかもしれないって……」 私はトイレから出るや、すぐさま産婦人科に電話を掛けた。 妊娠検査薬は100%ではない。 ――はっきりと、産婦人科で調べて貰わないと!  逸る心臓を抑え付けながら、それでも口元は期待に笑みを浮かべて知らず開く。 「ああ、だって、だって――!!!」 嬉しさのあまりに、地団駄を踏むことがあるなんて思いもよらなかった。 私は産婦人科に予約を済ませると、天井を仰いで万歳をしていたのだった。 ―*―*―*―*―*―  そして、正確な判定は――。 「妊娠していますよ。三カ月ですね。母子手帳を貰いに区役所の方へ行かれてくださいね」 淡々と話す医師を前に、私は喜びを噛み締める。 泰然として診察室を出た途端、握り拳を震わせたのだった。 ―*―*―*―*―*―*―  私は夫の帰りを今か今かと待っていた。 驚くかしら? そりゃ、驚くわよね? だって、私たち――。 私は浮き立つ心を鎮め、五年も前の過去を振り返っていた。 『子供は諦めましょう。いいじゃない、別に子供の為に夫婦になったんじゃないわ』 私は名女優のように屈託のない笑みを顔に張り付け、夫にそう告げていたのだ。  いつまでも子供が出来ない私たちは、お姑にせっつかれて――とは、嘘だ。  本当は私の為に一肌脱いでくれたお義母様がせっつき役を買って出てくれたのだった。 「紀子(のりこ)さんもいつまでも若くないのよ?不妊なら不妊でしっかり検査して、妊活するのが今どきでしょう?神頼みだなんて、安易な責任放棄はしないで頂戴」 敢えて夫の前で私を詰ってくれ、そして私は姑にいびられる可哀想な妻を演じた。 「か、母さん、何もそこまでしなくても……」 「何を言っているのよ?そこまでも何も近年の医学では当たり前に行われていることよ?私のお友達の息子さん夫婦だって不妊治療したらすぐに赤ちゃんが出来たんだからね。紀子さんをしっかり支える為にも、あなたも一緒に先生の話を聞いて来なさい!」 そして、巧い具合に私ばかりでなく夫にも妊活義務を課したのだった。  実は既に私自身は産婦人科に掛かって、何ら問題は無いことは証明済みであった。 問題があるのは夫の方である可能性が高かったのだ。  けれど、幾ら昨今が不妊治療に前向きになってきているとはいえ、それは女性の間だけでの話であって、夫は非協力的であることが往々にしてある。  少なくとも私の夫は話すまでも無く、男の沽券にかかわるとか何とかというつまらない理由で、非協力的であることは明白だった。  彼の母親の協力がなければ、産婦人科の門など潜ろうとはしなかったに違いなかったのだ。  そして、検査結果は『乏精子症』――精子の数が通常の半数以下であると判明する。  けれど、明白にする必要が果たしてあったのか、私は自問自答するようになる。  夫のしょぼくれた後姿に罪悪感が込み上げた。 「ねぇ……子供、そこまでしてほしい?」 私は本当に欲しかったから、ひと芝居打って貰ってまで夫をこの場に引っ張り出したけれど、こんなに一気消沈した夫を見たかったわけじゃなかった。  でも、そんなことは少し考えれば分かっていた筈だ。 だったら――? 本当は、どうしたかったのだろう。 私は私が分からなくなってしまった。 夫にも協力して貰って、一緒に妊活したかったの? 「うんん、ちがう。責任を明確にしたかっただけだわ。私の所為じゃないって……」 女のつまらない沽券とやらを守りたかっただけだと気付く。 私の代わりに傷付いてくれている夫に対して、罪悪感が込み上げる。 ――ごめんなさい……。 私はそっと、夫の背を抱き締めた。 夫の広い背、がっちりとした肩幅、慣れ親しんだ匂いに、体温。 それら全てに愛おしさが込み上げた。 ――子供よりも、何よりも、この(ひと)を大切にしよう。 そんな気持ちから私は子供を諦めたのだ。  
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