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小舟に乗り、海に繰り出し、闇の広がる真っ黒い水の中に滑り込む。三途の川も越え、いっきに海底まで行くと、海雪と花たちは大人しく待っていた。
天音は、息を吸い込み、ありったけの呪法を使った。
雪と花のひと塊が、浮かび上がった。近くにいた魚たちは、さすがにぎょっとして姿を消していく。白い雪にまぎれて、かすかに赤い雪もあり、またしぼみかけた赤い蕾もある。それを確認すると、天音はそのまま塊を引き連れて、上方へ向かった。
頭上できらっと光るものがあった。
三途の川だ。
碧の燐光を放ち、ときには虹色に輝く、海の中の川。ゆるやかな流れで、どこまでも続く、幻想的な川。
天音は一度目を閉じ、自分の考えが間違っていないだろうことを再確認して、目を開けた。最後にもう一度、赤い蕾を目に焼き付けてから、海底から連れてきた塊を三途の川に近づける。川と交差した箇所から、天音の呪法がかき消えていくのを感じる。
海雪と花たちは、天音の呪法から解放され、三途の川のきらきら輝く流れに乗って、消えていく。天音は、その様子を見つめた。
五十鈴は、海底まで来たことはなかったはずだ。だから海雪が海中をただよったあと、降りつもって花を咲かせることは知らなかった。
五十鈴は、病に倒れてからずっと床から動けずにいた。寝たきりの人間を、植物のようだと言うことがある。彼女はそれを厭っていた。死んだあとも植物になって、ひとところに留まることは苦痛だったはずだ。だから、海雪になりたがった。いつまでも、ゆらゆらとさまよう、海の中の雪に。
母もきっと、同じだった。
海雪になりたいと言った、彼女たちの横顔を思い出す。
それならば――、波間をさまよいたいと言うのなら、どこまでも流れるこの川に乗って、色々な海を旅すればいい。美しい海雪の姿で、降りつもることなく、どこまでも。
今度こそ、本当に、さようならね――。
雪たちは、海の底にいたときより伸び伸びと輝いて、楽しそうに見えた。それはもしかしたら、そうであってほしいと天音が願っていただけかもしれないけれど。
ゆるやかに遠く消えていく雪と花の最後のひと粒が見えなくなるまで、天音はそこにいた。
悲しいと思うのは、妹離れができていない証拠だろう。それでも五十鈴がずっとこの海のどこかをさまようのであれば、いつか天音が死んだとき、この川に乗れば五十鈴と再会できるかもしれない。
いつか、は、まだまだ先のことかもしれないけれど。それでも、それは救いに思えた。
*****
ぐん、と海上まで泳ぎ、郷に帰るため舟を操る。
朝になったら墓地に行って、休んだ分の仕事をしなければならない。
墓地で咲き続ける、不憫で可哀想な、屍の花たちのために。
そして天音は思うのだ。
死んだら、花ではなく、雪になりたい。
(了)
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