海の雪、屍の花

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「天音さん、もういいわよ」  寒さにかじかんだ指先に息を吹きかけていると、全身黒い着物に身を包んだ女性が、いつのまにか、背後に立っていた。夕陽を背負って黒い影を伸ばす彼女は、墓守として天音の指導にあたっている女性だ。 「もう帰りなさい。妹さん、いつ亡くなってもおかしくないのでしょう」 「はい。お先です」  天音は会釈して、墓地の出口へと歩き始めた。  そのとき、林の向こうから黒いものが駆け抜けてきた。狼――の姿をした、妖魔だ。低く唸りを上げて、一直線に向かってくる。  どうしようか。仕事はもう上がらせてもらったが。  天音が逡巡したその一瞬の間に、背後から鋭い風が通り抜けた。  ギャン、っと妖魔が吠える。その肩口がぱっくりと切られて、血がほとばしった。ついで、二度、三度と風の刃に刻まれ、あっけなくこと切れる。  天音が振り返れば、死神のようにひっそりと立つ彼女が、「行きなさい」と手で軽く合図した。天音はもう一度頭を下げて、今度こそ墓地の出口に向かう。  妖魔のむせ返るような腐臭が漂うのに反して、あたりには様々な色形の花が可憐に咲き乱れ、見た目だけは天の楽園の様相をしている。  人は死ぬとき、呪法で自身の身体を花へと転じる。  死すときは、美しく――。  この言葉が、人が最期に志すものだった。  花へと姿を変えた(かばね)は墓地に集められるが、花弁にはわずかな呪法が宿っていて、幽鬼や妖魔がその気配に引き寄せられる。それらを退けるのが、天音たち墓守の務めだった。 『母さんはね、海の中の雪になりたいわ』  花たちを見ると、ふとしたときに、他界した母の横顔を思い出した。
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