海の雪、屍の花

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 船着場で小さな舟に乗り込むと、すーっと音もなく舟は水の上を滑る。呪法を注げば、櫂で漕ぐ必要はない。暗い夜の海の中、鬼灯の灯りだけを頼りに、海の真ん中まで進んだ。  天音は呪法で、蛍烏賊を集めたような青い光を海の中につくり、その光を追うように、とぷん、と自身の身体も海中へ滑り込ませた。  冷たい水に一瞬包まれたが、温度、水圧、酸素の欠乏への対応、視力の補完――、すべての呪法を瞬きひとつの間に終わらせる。五十鈴もいつのまにかとなりにいて、心細そうに蛍烏賊の光を見つめていた。 『もうすこし、明るくできませんか』  頭に直接届く声。 『これでいい?』 『はい』  周囲を照らす光を強くすれば、五十鈴はにこりと微笑んだ。  海の中はひっそりと暗い。  水の流れを操作して、海の底へおり始める。  ときどきすれ違う魚たちが、ぎょっとしたように天音たちを避けていった。ただそれも、潜れば潜るほど、なくなっていく。海の深い場所で棲む生き物はおっとりと構えていて、たとえ人間が近くにいても見向きしない。 『ほんと、姉さまは潜るのがお上手ね。こんなにすいすい潜ってしまう人、ほかにいないわ』 『そうでしょうね。みんな海を嫌って、そもそも潜ろうとしないのだし』  地上で生きる彼らにとって、海の中は未知と危険にあふれた世界だ。そこに踏み入るのは好奇心旺盛な阿呆だけ。保守的な郷の人々は、そんなことをしない。  ふと、流れの違う水を感じた。下方を見れば、まるで天の川のように、海の中に一筋、きらきらと流れる川があった。 『五十鈴、こっちにいらっしゃい。三途の川よ』  無数の星が海に落ちたような姿で、時折、碧の燐光を散らしたかと思えば、虹のような色味も見せて、ゆったりと流れていく。  あの幻想的な川の流れに嵌ると、よほど運が良くない限り、抜け出すことはできない。あの世へ続く三途の川、と人々に呼ばれていた。  どんな力が川をつくっているのかは知らないが、あの流れにのまれたとたん、人は呪法を使えなくなる。水圧と、酸素の欠乏に迫られ、頼りなく流されることしかできない。一見穏やかな流れに見えるが、まさにあの世行きだ。しかも川の流れる場所は日によってまちまちで、予測ができない。  この川の存在が、人を海に近寄らせない要因でもあった。  五十鈴は、じっと川を見つめていた。 『五十鈴? 怖いの?』  そこでやっと、天音を見る。赤い瞳に浮かぶのは、どうも恐怖ではないようだった。 『この川、どこまでも流れていくんですよね』 『ええ』 『綺麗ですね』 『見た目はね。――行くわよ、五十鈴』 『はい』  二人は三途の川を迂回して、さらに潜っていった。
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