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『このあたりにしましょう。これ以上、あなたは潜れないだろうから』
天音が言うと、五十鈴は頬を膨らませた。しかし彼女の呪法と集中力では、ここまでが限界だ。それは本人も分かっているのだろう、反論はしなかった。
天音は蛍烏賊のような青い光を、すこしずつ弱めていった。強い光は邪魔になる。しかし五十鈴のために、暗闇にはできない。
慎重に加減し、闇が深まっていくと、かすかな白いものが舞っている様が浮かび上がってくる。水の流れに、ゆらゆらと、白い雪がたゆたっていた。
五十鈴がうっとりとした声で言った。
『私、海雪が、一番好きです』
――海の中にも、雪は降るのよ。
天音は、ふと、母の声を思い出した。
母の言葉は本当だった。海に降る雪は、ほんのわずか白い光を放っていて、地上の雪よりよほど美しい、と天音も思う。
この雪は、海に棲む微小な生き物の死骸や排泄物などが混ざったもので、地上の雪とは性質が異なっているらしい。言うならば、死が混濁した結晶だ。
そんな海雪には不思議なことに、呪法のような力が宿っているらしく、自ら光を放つ。弱い光だが、暗い海の闇には幻想的に浮かび上がった。
『私、死んだら、海雪になりたいな』
ぽつりと落とされた五十鈴の言葉に、天音は母の細い指と墓地の花々を思い出した。
『――死んだあとの美しさを思うより、すこしでも長く生きる方が、よほど建設的だと思うのだけど』
『もう、姉さまったら墓守のくせに、そんなこと言う』
『屍の花は、もう見飽きたわ』
『うーん……、でもたしかに、私も墓地にある花は嫌ですね。やっぱり海雪がいい。ゆらゆら海の中をさまよい続けるんです』
天音は五十鈴の赤い瞳をじっと見つめた。
彼女の口から、そんな話は聞きたくなかった。
『最後の呪法をそんなことに使うくらいなら、長く生きてちょうだい』
五十鈴は困ったような顔をして、うつむいた。
しばらく二人してなにも言わなかったが、五十鈴が観念したように肩を竦める。
『分かりました。じゃあ、私が死んだら、私の体を変える役目は姉さまにお願いするわ。とびきり綺麗な海雪にしてください。――さて、私はもう呪法の限界。身体のもとへ帰ります』
『そう。おやすみ』
『おやすみなさい』
言い終わるか終わらないかのうちに、五十鈴の姿は波にさらわれるように、かき消えていた。ここにいた五十鈴に、実体はない。彼女の身体は、今も茅葺屋根の家で眠り続けている。
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