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二人の間に妙な堅苦しさはなく、いつものように自然と会話が生まれた。なんといっても卒業の日だ。色恋の要素を抜きにしたとしても、語り合うことはいくらでもあった。
学校生活のこと。日々の部活動のこと。文化祭でのステージのこと。そして、卒業後の進路のことに話題は及んだ。
陽花は県外の大学へと進学する。新しい生活が待っているのだ。きっと、この先いくらでも出会いがある。
「ぼく以外を好きになればいいじゃないか」
ぼくは意を決して言った。
「ぼくなんかのどこがいいんだよ」
「えー。顔? 声? 雰囲気? ノリ?」
「そんな身も蓋もない理由かよ……」
「でも、恋ってそういうものでしょ? この上なくシンプルでいて、どうしようもないものじゃない」
「そう言われたら、激しく同意せざるを得ないけれど」
人を好きになる理由なんて、言葉にしてしまえば大概たいしたものではない。ただ、心がどう反応したのか。それがすべてなのだ。
「もちろん、ちゃんとしたきっかけもあったよ」
陽花が深く頷く。
「君はわたしに、生きているってことを思い出させてくれたんだ」
どういうこと? と返そうとすると、陽花がおもむろに立ち上がり、毛布とブレザーを脱ぎ捨てた。そして、シャツのボタンを外し始める。ランタンの灯りに照らされて、白い肌に浮いた細い鎖骨が覗く。
「ままままて、早まるな。忘れたか。ぼくは童貞だぞ」
ぼくは言った。
「なに勘違いしてるのよ」
第三ボタンを外したところで手を止め、そっと胸元をはだけた。思わず息を呑む。そこには大きな傷痕があった。多分、手術のあとのような。
「一年生のとき、死にかけたの。この心臓、何度か止まったことがあるんだよ」
ぼくは言葉を失い、ただ呆然と陽花の声に耳を傾ける。
「若くして絶望ってやつを味わいましたよ。退院してからもなんか、その感覚が抜けなくて……自分が生きているかどうかわからないままフワフワと過ごしていたの」
快活な陽花の姿しか見たことがないぼくには、想像が付かなかった。一年の時に学校で陽花を見かけなかったのには、そんな理由があったのか。
「そんな時、君のドラムの音が聞こえてきたんだ。それでなんでだろう、その時、自分の心臓が再び動き始めた気がしたんだ」
そう、と陽花は続けた。
「わたしは自分の心臓に従ったんだよ。そうやって、君に恋をしたの」
「そんなの……」
思わず声が途切れる。ぼくが何気なく叩いた、拙いエイトビート。それが、絶望を味わった少女を救うことになるなんて。
「そんなの、まるで奇跡みたいじゃないか」
「奇跡だよ。わたしにとっては、目に見えるすべてが」
そうか。それが、陽花が紡ぐ美しい言葉の背景なのだ。彼女には、自分を取り巻く一瞬一瞬が奇跡に見えるのだろう。過去の蓄積にこだわり続けるぼくとは、正反対といえるかもしれない。だからこそ陽花の言葉はぼくに刺さるのだろうか。
「わたしも君の考えをちゃんと聞きたいな」
陽花が言った。
「陽花を好きになった理由か?」
「違う。わたしと付き合おうとしない理由」
「……怖いんだ」と、ぼくはこたえた。
「陽花への想いが積もれば積もるほど、いつかそれが失われてしまうのが怖い。だって、考えてみろよ。同級生のカップルで卒業まで持った奴らがどれくらいいる? ぼくの父親は母親を捨てて、他の女と暮らしてるんだ。そもそも、恋する同士が結ばれたとして、その関係を恋のまま維持できることなんて、できるのかな?」
ぼくは背後のカーテンを開けて、陽花の視線を窓ガラスの外へと促した。ひんやりとした冷気が肌を撫でる。相変わらず空からは、雪がしんしんと降り注ぎ続けている。
「この雪と同じだよ。この恋は、ぼくの心にとってまさに異常気象だ。このまま無限に積もっていく自信がある」
だけど、とぼくは言った。
「だけど春が来てしまったら、全部溶けてしまうじゃないか。そうなるくらいなら、ぼくは片思いのままこの恋を永遠に守り続けたい」
そうだ。恋は叶うから終わりを迎える。叶うから、愛とか情とかいう漠然としたものに変化してしまう。恋を恋のまま持続させるには、永遠の片思いという体裁をとることが最善だというのが、ぼくの導き出した結論だった。
「その考えってさ。すごーく、独りよがりだよね」
陽花が半ば呆れたように言う。
「それは否定しない。みっともないのもわかってる」
「うーん、ままなりませんねー。どうしよっか?」
正直言って心が揺らいでいた。この恋を失いたくない。ぼくが選ぶ手段が陽花を再び絶望させるようなことも、あってはならない。だけど、すべてを曖昧にしたまま前に進めるほど、ぼくたちは大人じゃない。何を選ぶのが正しいのかなんて、たぶんそうなってみないとわからない。
ぼくの逡巡を遮るように陽花が言った。
「じゃあさ、賭けをしようよ」
「賭け?」
「いっそのこと天に委ねてみない? 零時までに雪が止むか止まないか。なんかロマンチックだし」
「雪が止んだら?」
「君はわたしに正式に告白する」
「止まなかったら?」
「君は永遠の片想いを選ぶ」
「いや、そもそも賭けになるのか? この雪、そう簡単には止みそうに無いぞ」
最後に見た天気予報の内容を思い出す。雪は朝まで降り続ける予報だったはずだ。
「大丈夫」
さっき言ったようにね、と陽花は続ける。
「わたしには奇跡が味方についてるんだから。そこんとこヨロシク」
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