赤い傘

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 山のふもとにある役場の駐車場に、大きな熊が板にはりつけにされていた。猟友会が駆除したのを、テレビ局が取材にくるというのでそうしてあるのだった。  板塀を木に立てかけ、熊の四肢を拡げてロープで固定してある。死んではいるが野生の猛獣だ。小雨の降るなか黒い爪の前脚を高く掲げ、口の周りに血を噴いている姿は凄まじかった。  子供が数人、駐車場に駆け込んできた。鬼ごっこをしているらしい。甲高い声を出してノブヤの前を走って行ったが、後からやってきた小学校の低学年くらいの女の子が一人、赤い傘を掲げて熊に近づいてきた。  熊の形相は子供が見たらこわいだろう。泣き出すのじゃないかとノブヤはちょっと心配した。  が、しかし、女の子はショックを受けた様子もなく、ただ、ふしぎそうな目をして熊を見上げていた。  それはノブヤがおもわず苦笑してしまうほど、こわいも好きもない、無垢な反応だった。  まもなく、先に行ったほかの子供たちに呼ばれると、女の子はうれしそうに赤い傘を背中に回して走って行った。  ノブヤが社務所で仕事をしていると、神連会の岩田が寄付金をもってやってきた。神連会は神道系の右翼団体である。ノブヤの神社とは先々代の昭和の初め頃からのつきあいで、祭式に関わらずたびたび寄付をしてくれる。  岩田はそこの構成員である。身体は大きいが正直で気のやさしい男だ。同じ東北生まれの代表に気に入られて護衛係を務めている。  右翼にかぎらず、かたくなな思想信条をもってそれを押し通そうとする団体には否定的な意見をもつノブヤだったが、岩田には好感をもっていた。  世間話の間に台所でお茶を淹れ替えて戻ると、岩田がスマホを出してひとりでニヤついている。 「会館にいる娘なんですよ、ね、かわいいでしょ」  そういって、スマホを掲げて見せた。会館とは神連会が入っているビルのことである。  机に向かって事務を執っている女の横顔だった。まつ毛の長い色白の、ポニーテールの娘だった。 「それ、盗み撮りじゃないか。犯罪だぞ」 「え?」  ノブヤは冗談でいったつもりだったが、岩田は真に受けてしまった。 「悪い事なんですか?」 「いや、まあ。横顔くらいならいいんじゃないか。本当に盗撮したの」 「でも俺、悪気があってやったわけじゃないです。ただ……」  岩田は真顔である。 「その子に気があるのか、好きなのかい?」  ノブヤがきくと、岩田は真っ赤になってうなずいた。  街宣車の屋根に立って罵声を浴びせる者たちに睨みをきかせたり、敵対する過激組織から代表を護る役目をしている。そういうごつい男が好きな子をこっそり写真に撮って大事にしている。なんだかかわいらしかった。    何日かして、ノブヤは寄付の御礼のため神連会へでかけた。広い通りのオフィス街にある青い外壁の七階建てビルである。  一階ロビーの受付カウンターで、菓子箱を持って取り次を待っていると、突然、近くで大きな怒鳴り声と争う音がした。  ロビーの隣には、格子のシャッターを隔てて地下駐車場への入り口があった。そこから、血相を変えた岩田が小柄な女の手を引いてとびだしてきた。そして、すぐあとからはげしい靴音と共に、数人の男たちが駆け上がってきた。  岩田が連れているのは、ノブヤに見せたスマホの女である。  ノブヤは格子のシャッター越しに岩田の姿が見えていたが、岩田にはノブヤが目に入らないようだった。  岩田は女へ「逃げろ!」と声をかけると身をひるがえして、追ってきた男たちへ突進した。  男たちはいつも見る神連会の者たちではない。迷彩柄の服を着た者、肩に刺青をした者、十人ばかりもいる男たちはいずれも屈強にみえた。いくら岩田が大男だといっても、一人でかなう連中ではなかった。  岩田は必死に格闘したが、殴り合ううちにしだいに壁に追い詰められていった。ノブヤは岩田に加勢してやろうとしたが、シャッターが上がらない。どうしようもなく、ただシャッターを叩いたり揺さぶるだけだった。  いったい何が起こっているのだ。岩田はなぜ女を連れて逃げようとしている。  岩田が助けようとしている女は、逃げきれず二人の男に捕まり、床に突き転がされてしまった。  男の一人が、倒れた女の後首をつかんで引きずって行こうとした。そのとき、壁を背中に多勢から殴る蹴るの暴行を受けて、なかば意識を失いかけていた岩田の、血まみれの顔の両目がそのほうへ動いた。  一瞬、ノブヤは、周りの空気がこの世界の物とは違った、異なる世界の空気に変わった感じがした。  岩田のからだが異様にふくらみ、それが鬼の形になって空気を爆発させた。拳を振り上げていた男たちは、激しい爆風にはじかれ、うろたえる間もなく吹き飛ばされた。  ノブヤは風圧に押されるシャッターのかげで青ざめた。岩田のつよい執念が一瞬、冥界の扉をひらいたようだった。  冥界へ落ちる前に岩田を救ってやらなければならない。深呼吸して立ち上がったノブヤは、爆風でゆがんだシャッターに両手を掛けた。しかし、やはりびくともしなかった。  シャッターの向こうでは、血を流した男たちがコンクリートの床にのびて動かない。岩田は壁になかば埋もれていた。蜘蛛の巣のようなひび割れの走ったなかで、大きな手をだらりと下げて、まるで死んでいるようだ。  その正面に女がいて、息をしていない岩田を見上げていた。その表情はただ、ふしぎなものを見ているようだった。  騒ぎに気付いた誰かが鳴らしたのだろう、けたたましい警報音がビル中に響くと、女はひざから立ち上がって、急いでビル駐車場から出て行った。  後日、ノブヤは事件のいきさつを神連会の関係者からきくことができた。  女は公安警察の刑事で、神連会の事務をしながら独自に暴力団と接触し内部情報を手に入れていた。それを察知した暴力団とのあいだで争いが起こったということだった。女を引き渡すことに断固反対したのは岩田だけだったそうである。  岩田と女はとくに親しかったというわけではなかったらしい。岩田は総長の護衛として外へばかり出ていたし、女はパート勤務で一日の短い時間事務所にいただけだから、顔を合わせる機会もあまりなかったにちがいない。  それでも、代表が街頭演説をしたとき、雨にぬれながら付き添っていた岩田に、ちょうど事務の連絡に来た女が、自分の持っていた使い捨てカイロを背中に貼ってくれたことがあったそうだ。そして、そのことを岩田はいつもうれしそうに話していたらしい。  たったそれだけのことで、岩田が女にほれてしまったのかどうかはわからない。でも、ありそうな気もする。岩田のような不器用な男がほんのちょっとしたやさしさに感激して、心底女を愛してしまったとしてもふしぎではない。男の中には、そういう単純で純情な者がたしかにいるのである。岩田がそうだったかどうかはわからないが、とにかく、彼が命がけで女を助けようとしたのは事実である。  入院した岩田を見舞うため、ノブヤはバイクで病院に向かっていた。街のなかで信号が変わるのを待っていると、子供たちがにぎやかに通学路をやってきた。  雨の日で、みな傘を差していた。  その子供たちのなかで、赤い傘がくるくる回っているのを見ると、ノブヤは死んだ野生の熊を見上げていた女の子のふしぎそう表情を思い出した。  助けてもらったあの女は、岩田の気持をわかってやれるだろうか。  雲の切れ目からいつか日がさし始めていた。 おわり
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