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朝日が降りそそぐ二階建て集合住宅の広い部屋では、今日もいつもと変わらぬ一日が始まろうとしていた。
「わたしたちホモ・サピエンスは、旧人のホモ・ネアンデルターロ…ンス、原人のホモ・フローラーエン……えぇっと」
「ホモ・フローレシエンシス」
ラ行とサ行の発音連携がまだ上手くできない六歳になる息子の背後から私は優しくお手本を示した。リビングの床にぺたりと座り込んで絵本教科書の文字を追っていた息子が、ゆっくりと口を動かした。
「ホモ・フローラ…イエンシス」
やはり難しいようだ。私はにっこり頷いて息子の横に座ると続きを丁寧に読み聞かせはじめた。
「かれらは同じ時間を生きていました。みんな別の場所で平和に暮らしていた人類種でしたが、わたしたちホモ・サピエンスだけが、どうして高い文明を築き上げることができたのでしょうか」
「ねぇ、お母さん」息子が顔を向けた。「『築き上げることができた』って、どういうこと」
私が答えようとしたとき、ドアチャイムが鳴った。
「あっ、真紀子先生だよ」
思考を中断された息子は、来客が誰だかインターホンで確かめる間もなく玄関まで走っていった。感情が行動に直結してしまう幼さに仄かな期待が生まれる。
「おはようございます、栄介ちゃんのお母さん」
「はい、おはようございます。今日は早いお越しですね、先生」
来客は息子が言った通りの人物だった。
鈴木真紀子。二年前に教員免許を取得したての新人だが、面倒見が良くて仕事熱心な巡回教師だ。もう少し成長すれば息子も複数の巡回教師のお世話になるが、それまでは彼女が学習面の大部分を担当してくれる。
「えぇ、今日は人類史をたっぷり復習してもらいたくて、少し急いで来てしまいました」
「そうでしたか」私は彼女の表情から好ましいものを読み取ると、にっこり頷いた。「なら、お腹が減ったんじゃありませんか。冷蔵庫にアップルパイがありますよ。召し上がりますか」
「えぇ、ありがとうございます。でも栄介ちゃんと朝の復習を済ませてから一緒にいただくことにしますわ。その方が美味しいに決まってますから」
「お味は変わらないと思いますよ」
「えぇ、そうかもしれませんね」
私は彼女から微かな戸惑いを瞬時に読み取ったが、それ以上は何も言わずに上着を手にした。
「では、私は今から外出しますので、いつものように、あとは宜しくお願いしますね」
「お任せください」
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