インターフォンの女

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地元の三流大学を卒業し、何とか就職先も決まった。  会社から最初の配属地として指定されたのは、隣の県にある営業所だった。実家から通えない距離ではないし、両親も「仕事に慣れるまで実家にいたらどうだ」と言ってくれたが、俺はあえて、初めての独り暮らしを選んだ。社会人になるのをきっかけに、誰にも気兼ねなく自由に過ごしてみたかったのだ。  春休みのうちに、俺は現地の不動産屋を訪れた。愛想の良い太った店主が、次から次へと単身者向けの物件を紹介してくれる。その中の一つに、相場よりだいぶ賃料の安いマンションがあった。広さ、間取り、築年数、耐震強度、最寄り駅からの距離、コンビニまでの距離。条件はどれも文句なしだった。 「ここ、何でこんなに安いんですか?」 「まぁ、掘り出し物ですからね」 「まさか、事故物件とかじゃないですよね?」  前の住人が、その部屋で首吊り自殺なんかしていたら……と心配になったのだ。いくら家賃が安くたって、幽霊と同居なんてまっぴらだ。 「いえいえ、事故物件だなんてことはございませんよ」 店主はヘラヘラ笑いながら大袈裟に手を振った。 「これから社会に羽ばたく若人への応援価格です」 店主の笑顔と言葉を信じて、俺はその部屋を契約することにした。  新居での暮らしはとても快適だった。実家に比べれば狭いものの、社会人一年生が住む部屋としては上等な部類だろう。四月に入って会社勤めが本格的に始まり、研修やら何やらで慌ただしい日々が続いたが、この部屋の快適さのお陰でストレスはほとんど溜まらなかった。  そんなある日のことだった。  夜、帰宅すると、インターフォンが赤く点滅していた。 留守中に宅配便でも来たのかと思い、録画を再生する。 だが、そこには誰も映っていなかった。  近所の悪ガキがピンポンダッシュでもしたのだろうか。そう言えば、俺も小さい頃、友だちの家でやったっけ。そんなことを思い出したくらいで、特に気にもしなかった。 だが、数日後。また同じようなことがあった。 インターフォンは確かに点滅しているのに、録画を見ても、ドアの前には誰も映っていない。  二回目なので少し気味悪かったが、それでも、機械の誤作動くらいにしか思わなかった。  それから、さらに数日後の土曜日だった。 俺は大学時代の友人であるタカシを部屋に招いていた。お互いの新生活についてあれこれ話しながら、缶ビール片手に夕飯をつまんでいた時、ピンポーン、とチャイムが鳴った。 俺はソファから立ち上がり、室内のモニター画面を覗いた。 そこには誰もいなかった。 ああ、やっぱりこのインターフォン、調子悪いみたいだな。そろそろちゃんと修理、頼まないとな。 「お客さん?」  そう尋ねるタカシに、インターフォンが馬鹿になっちゃってさと苦笑いしながら返した。ところが、ソファに戻ったところで、ピンポーン、とまたチャイムが鳴った。思わず舌打ちをしてしまった。  今度はタカシが立ち上がり、モニターを覗きに行った。 「な、誰もいないだろ?」  俺はタカシの背中に声を掛ける。タカシは何も答えない。 「タカシ、誰もいないだろ?」  俺はもう一度、声を掛ける。タカシが振り返る。 タカシの顔は真っ青だった。 「おい、タカシ、どうしたんだよ?」  俺は戸惑いながら、タカシに近寄った。 「女」 タカシが小声で言う。 「え、女?」  俺はタカシの肩越しにモニターを見た。誰もいない。 「おい、タカシ。女なんて」  いないぞ、と俺が言う前に、タカシが言葉を発した。 「血まみれの女」 タカシは震える声でそう言った。 「今、血まみれの女が、そこに立ってたんだよ」 「やめろよ、タカシ。何言ってるんだ、お前?」  俺は笑いながらタカシを小突いた。タカシは真剣な表情で俺を見つめたまま、首を横に振った。 タカシはつまらない冗談を言うやつではなかった。 だから、俺はこれまでの考えを改めざるをえなかった。  来ていたのだ。 これまでも、その女は。  インターフォンの誤作動なんかじゃなかったのだ。ただ、俺が見えていなかっただけで、ずっと、目の前にいたのだ。 血まみれの女が。 「いけね、急用を思い出した。また来るよ」  わかりやすい嘘をついて、タカシは逃げるように帰っていった。 俺はタカシを見送った後、すぐに不動産屋に駆け込んだ。クローズドと書かれた札を無視して店内に入る。店主は怪訝な表情で俺を見たが、俺が血相を変えているのに気が付くと、何かを察したかのように溜息をついた。 「血まみれの女が訪ねて来たんですよ。俺の部屋に」 俺が強い口調でそう言うと、店主は神妙な顔付きで語り始めた。 「実は、お客さんの二つ前の入居者だった男性が、恋人の女性と、ちょっと揉めましてねぇ」 男と恋人は別れ話がもつれ、あの部屋で、恋人が男を刺したのだという。 「男性はかろうじて一命を取り留めたんですが、刺した恋人の女が、その後、自分で頸動脈を掻き切って自殺しましてね」  刃物で首筋を掻き切る真似をしながら、店主は話す。 「私が警察の方と一緒に部屋を見た時は、遺体はもう運び出されていたんですが……部屋は壁から天井まで全部、血で真っ赤でしたよ」  店主はブルリと身震いしてみせた。  案の定、あの部屋は事故物件だった。おかしいと思ったのだ。あれだけ環境の良い部屋が、あんなに安い家賃だなんて。 「どうして、事故物件であることを俺に通知しなかったんですか?」  俺は声を荒げて店主をなじった。 「あなたの前に、別の入居者を一人挟んでいますから、法的な通知義務なんてないんですよ」  店主は開き直るようにそう言い放った。俺は怒りで頭がクラクラして来たが、法律を盾にされては、これ以上、何も言えない。 「ちなみに、俺の前の入居者さんは、血まみれの女を見なかったんですか?」 俺はそう尋ねたが、店主は無言で目をそらしただけだった。それが何よりの答えだった。 めまいをこらえながら部屋に戻る。ものすごい疲労感を感じて、俺はベッドに潜り込んだ。寝付きが悪かったことは言うまでもない。  翌朝。目を覚ますと、インターフォンが赤く点滅していた。おびえながら録画を見たが、例によって誰もいない。  どうやら、あの女が夜中にまた来たようだが、その姿は俺にはまったく見えない。きっと、俺には霊感というやつがまるでないのだろう。  俺は冷静に考えてみた。 確かに、女の幽霊は不気味だが、見えないのなら、このままここに住み続けても、別に問題ないのではないか。 この部屋は、幽霊が訪ねて来ることさえ除けば、最高の環境なのだ。引っ越すにはあまりにも惜しい。そもそも、俺はあの女にとって何の関係もない人間だ。祟られる筋合いなんてない。 結局、俺はこの部屋に住み続けることにした。  翌日も、その翌日も、インターフォンは鳴り続けた。  慣れというのは面白いもので、数日も経つと、俺はまったくそれが気にならなくなっていた。  だが。  ある日の朝だった。俺はいつもどおり、出勤のために部屋を出た。鍵を掛けようとドアノブを見て、俺は悲鳴を上げた。 そこには、細い指の痕がべっとりと付いていた。 それだけでなく、ドアにも、爪で引っ掻いたような傷痕が、無数にあった。 あの女が、いよいよ力づくで、この部屋に入って来ようとしているのだと思った。  その日の夜、俺は部屋に帰らず、駅前のネットカフェで一晩過ごした。  翌朝早く、俺は恐る恐る、部屋の様子を見に戻った。 ドアノブには何も付いていない。ドアの傷も消えている。昨日のあれは、俺が恐怖のあまり見た幻だったのだろうか。  鍵を開け、そっと室内に入る。 「あぁぁぁぁ!」 俺は絶叫した。 部屋は血まみれだった。 床も、壁も、窓も、天井も、すべて真っ赤に染まっていた。 俺は腰を抜かし、その場に座り込んだ。首筋に湿った嫌な風を感じた。次の瞬間、耳元で言葉が聞こえた。 『おかえり』  俺は部屋から飛び出した。その日のうちに引っ越しの手続きをし、夜逃げ同然に実家へ帰った。 以来、あの町には一度も足を運んでいない。会社も辞めた。  だが、ネットで調べる限り、あの部屋は、今もまだ、賃貸に出され続けている。  今日も、あの部屋ではインターフォンが鳴っている。 【了】
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