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その後は二人でバーへ行き、カクテルを楽しんだ。課長はお酒の飲み方がきれいな人だと以前から知っていた。結婚してもその長所は変わらず、私をたくさん笑わせてくれた。杯が進んでも、彼は笑い上戸になるだけで、嫌な思いはまるでしなかった。
この人となら、引け目を感じずに付き合えるかも知れない。
私は雨を口実に、今夜は何となく寂しいですね、と言ってみた。
男を誘うテクニックも身に着いている。彼は少しだけきょとんとして、「それがどういう意味か、僕にはわかりかねるんだけど」と言いながら、タクシー乗り場まで連れて行ってくれた。
車内では、ずっと手を繋いでいた。四十路間近の彼と、二十代を折り返した私を見て、タクシー運転手がどのように思ったかは知らない。程無くして、海岸沿いにあるシティホテルに私たちは滑り込んだ。予約していなかったから、フロントで若干手間取ったが、そのぶん部屋に入ってすぐに唇を重ねるスピード感があった。
彼は衣服越しにこの胸に触れ、腰を抱き寄せた。
私も「そんなつもりはないの」と言いながら、彼の背に手を回し、ジャケットを脱がせた。
行為に及ぶまで、二分とかからなかった。
雨に濡れた部屋の窓が、下からの明かりに照らされて輝いている。邪魔なものを脱ぎ捨てた私たちは、丁寧に糸を繋ぐように抱き合った。
彼は、若さに任せた荒々しさもなく、ひたすら私のためだけに時間を使ってくれた。そういった点でも、慶くんは本当に初心者だったなあ、と思う。私はぼぅっとしてくる頭の中に慶くんを描きつつも、穏やかな快楽に身を任せた。声が大きくならないように気を遣いながら、ただ一度きり訪れた絶頂を全身で堪能した。
暗い部屋の隅に、誰かがいると思ったのは、気のせいだったろうか。とても懐かしい思いで目を向けると、そこにはひっそりと佇む影が出来ていた。
白い壁には、それまでの行為を映した壁紙が、ダイヤモンドのように光る雨粒に反応して模様を作っている。
私の髪を撫ぜる彼は微笑み、悪戯を覚えた子どもみたいにキスをしてきた。
どこにも背徳感はなかった。ただ一夜限りのことでも、私は確かにこの人に求められた。
「重い」と言われることもなく、未来を求めることもしない。もしかしたら、結婚という言葉自体が、私にとっての枷だったのではないか、とすら思った。
ただ愛されるだけでは何故いけないのか。結婚をせずとも、恋をしたいと思うことはいけないことなのか。子どもだって積極的に欲しいとは思っていない。存外私は、自分さえ良ければいい類の人間ではないのかと、火照る身体に反して、鼻白む思いだった。
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