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と、その時、笑顔の有朋が、圭に視線を向けた。
大人しく見物をしていたつもりだが、始終冷静だった有朋は、密かな観客の存在に気づいていたようだ。
「今日は長瀬さんと一緒ではありませんよ」
「そのようですね」
おざなりに答えた頃には、有朋の姿は消えていた。
階段を上る静かな足音が聞こえ、早々に逃げ出せば良かった。と、後悔したが、遅かった。
有朋は上りきると、襟締の結び目に人差し指を差し込んで、慣れた調子で解く。
一瞬、敗北を覚えた。
その仕草は、大人の男にしか似合わぬものだったからである。
「罪を犯さぬ犯罪者はいるだろうか?」
突然の、意味不明な言葉に、圭は我に返った。
「矛盾ですね。
犯罪は、罪を犯すと書くからには、罪を犯さぬ犯罪者などいるはずがないのです。
罪を犯さぬ悪人ならおりますけれど」
鞄を壁に凭せ掛け、背広を脱ぎながら有朋は圭に並び、外に視線を向けた。
どこかで仕舞い忘れたらしい風鈴が、物悲しげな余韻を残しながら、澄んだ音を響かせる。
「それも矛盾していないかな?
罪を犯さないなら、悪人ではありませんよ」
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