プロローグ

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プロローグ

 勤務先の病院から帰宅した松岡孝司(まつおかこうじ)は、玄関にあった金の縁取りの封筒を開けて苦虫を噛み潰した顔になる。付き合いのない親戚から結婚式に招待されたのだ。なぜ俺が? と不可解に思ったが、すぐに合点がいった。過疎に悩む地方都市だが、そこの公立病院の副院長が親戚だということを新婦側にアピールしたいんだろう。そんな見栄っ張りな従兄に不快感を覚える松岡だったが、妙案が浮かんで招待状を妻の尚子(なおこ)に渡すと、 「父方の従兄の息子が結婚するらしい」 「お付き合いのない方なのに、どうして招待するのかしら?」 「さあ。だけどその従兄、なかなかのやり手でね、継いだ家業の業績を順調に伸ばしてるって聞いている」 「出席するの?」 「うん」 「お式はどこ?」 「N市」 「遠いわね」 「高速で飛ばせば二時間もかからない」 「車で行くつもり? お酒、飲むんでしょう?」 「JRだと乗り継ぎが面倒だろう。それに、久しぶりに親戚たちと逢うのに とんぼ返りするわけにもいかないし。一晩泊って帰る」  そう言ったものの、これには魂胆があった。松岡には愛人がいた。二十代の病院関係者で付き合って二年目。最近、彼が不満を抱いているのを感じていて、名誉挽回の為に結婚披露宴を利用しようと画策したのだ。  尚子は夫の言い訳を無表情で聞いていたが、「早くお風呂に入ってね」と言い残すとキッチンへ消えた。  そんな彼女の後ろ姿に向かって片目をつぶり手を合わせる松岡。最近、妻が従順だった。ようやく『浮気は男の甲斐性』だということを悟ってくれたのか…… と感謝の気持ちが芽生えるほどだったが、それが浅はかな考えであることに気づくのは、そう遠い未来ではなかった。  式当日。親戚達との二次会を仕事を理由に断った松岡は、愛人の待つホテルへ直行した。  ベッドを共にした後、老舗料亭で舌包みを打ち、ホテルの最上階のバーでカクテルを堪能し、部屋に戻って二回戦に挑む。 『これで何とか面子が保たれた』と安堵しながら、翌日彼を自宅まで送り、妻への土産を抱えて帰宅したのだが、何度インタフォンを押しても応答がない。  買い物かな…… そう思いながら自分の鍵で中へ入り、着替えをするため寝室へ入ると腰が抜けるほど驚いた。家具が――― 妻専用の和・洋ダンス、ドレッサーが忽然と消えていた!  この異様な光景を目にして松岡の体は震え、タンスごと盗んでいく空き巣の大胆さに呆れながら警察に連絡するため携帯のキーを押したが、ふと手を止めて考えた。 ――― いくら何でもおかしいだろう  胸騒ぎを覚えてリビングへ行くと、再び声を上げた。なんと、義父の仏壇とピアノが無くなっている。仏壇はいつでも手を合わせられるようにと実家とは別に購入し、ピアノは音大出の妻が嫁入り道具の一つとして持参したもの。『よもやまさか!?』とサニタリールームに駈け込めば、美顔器やドライヤー、化粧品などの妻の私物が見事に消えていて、ようやく事の真相に気づいた松岡は天井に向かって吼えていた。 「あいつ、俺がいない間に出て行きやがった!」  とりあえず妻の携帯に電話した松岡は、予想に反して彼女が出てくれたことに安堵して抗議の弁を述べた。しかし、妻の返事は、 『私が出て行く理由は良くご存じのはずでしょう? ベッドの上に離婚届があるから役所に出しておいて』 「会って話そう。今どこにいる?」 『話しは弁護士を通してね』 「尚子っ!」 『陽平が独り立ちするまでずっと辛抱してきたの。あの子が無事国試に受かって、これで綺麗さっぱり別れられると思ったら嬉しくて。今夜はシャンパンで祝杯よ』  それだけ言うと電話はこと切れ、妻の言葉通り寝室へ戻ると、ベッドの上に離婚届と弁護士の名刺、A4サイズの茶封筒が無造作に置いてあった。手に取るとズシリと重く、中身を見るや否や閉口する。それは、愛人達との密会写真の束で、焦る指先でめくっていくと、一番古い相手は妻が妊娠中に付き合った看護師、一番新しいのはさっきまで一緒にいた医事科の男だった。  唖然と立ち尽くすその手から、無数の写真が滝のように滑り落ちていく。 数十年間に渡って夫の浮気の証拠を集めた妻の執念に、松岡はただただ畏怖の念を抱いていた。
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