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「わ……私も、そう思います」
宮に仕え始めて早一ヶ月。主人の生活リズムもわかってきた頃だ。
まず、チグリが宮にいるのは夕方から早朝のみ。それ以外はどこかへ出掛けてしまっている。帰らない日は予めサランに伝えてあるらしいが、たまに、その日以外にも帰ってこないときがある。サラン曰く
『そういうときはねぇ、大抵賭博酒場で酔い潰れていますよ』
とのことだ。
そういうわけで、今、帰ってこない主君を連れ戻すために、トルエノとルーナと一緒に街を歩いている。サランは留守番を引き受けていた。
「チグリ様が神様?まあ、否定はできねぇな」
トルエノも頷いている。サランがチグリを神様と称したことを思い出し、話してみれば使用人たちは全肯定。歪む顔は許してほしい。神を信じていないだけだ。チグリが気に食わないわけではない。
「おぉっ、お前、神族の使用人だったのか!?」
ガヤガヤとうるさい酒場が軒を並べる街では、世間話など容易に漏れる。トルエノが珍しく頬を緩め、ボソボソとチグリの素晴らしさを語っていたが、喧騒はそれを掻き消すくらい、大きく響いていた。
「そーなんだよお!神族の姫に顔がいいって言われてさあ」
「そんでスカウトか。災難だな」
「でもお前、よく生きて帰って来れたなあ」
「そのことなんだけどな。俺、神族の御子様に宝石握られて、言われたんだよ。『僕が手引きするから、逃げて』って。でもそんなことしたら処刑されるだろ。丁重に断ったんだけどよ、その夜、急に姫に呼び出されて、『弟に不敬な口をきいたらしいな。死刑』って!もう怖くって震え上がってたら、そんとき、何とその御子様が出てきてよう!『僕の気が向いたときに処刑するから、姉様は口出さないで』って!そんで俺の耳にそーっと唇近づけてよう、『ね、逃げて。僕が守るから』って!ありゃあ、もう、腰抜けそうになったね。きっと、御子様は平民の気持ちがわかるんだ。だから、理不尽な理由で処刑される前に、俺を逃してくださって……本当にいい御子様だ。しかも宝石、退職金代わりにくれたしよ。まるで神様みた」
「盗み聞き?お行儀悪いよ、リヒト」
喉奥で、ひゅっと息が鳴る。やたらでかい話し声を聞いていたら、いつの間にか、トルエノとルーナは先に行ってしまったようだ。しかも、冷静になれば奴は聞き慣れた声をしていた。ホッと警戒を解き、振り返った。
「何すか、チグリ様。俺たちは、アンタを探して」
「うん、ありがとう」
遮るなんて、チグリらしくない。思わず眉を顰めて、ローブの中を覗き込んだ。瞳は紅で、悪戯っ子みたいな笑顔も、腰の細剣も、紛れもなくチグリのもの。ただ、飲みすぎたのか、顔色が悪い。
「どしたんすか」
「ねえ、リヒト」
顔色以外に、変わったところはない。
「君、人を殺したことはある?」
ただ、様子がおかしすぎる。
風が吹く。綻びかけた金木犀の匂いが漂ってきた。もうそんな季節かと、遠いところで考えた。枯れ葉が転がり、沈黙を縫っていく。
「あります」
声が掠れそうになったが、必死に唾を飲み込んだ。
「俺は、スラムの孤児っすよ」
食い詰めたことくらい、あります。と、呟いた。
「そっか」
対して、チグリは非難も同情も詰りも憐れみもしない。
「じゃあ、一緒に来てくれない?」
ただ、凪いだ目で微笑んでいた。
穏やかに。慈悲を垂れる神のように。
「で、お前は何の仕事してたんだ?」
「庭木の剪定!俺、そんなんしたことなくてさあ、王族とのパーティーまでに整えろって言われたけど、ぶっちゃけ、どうしていいか――」
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