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「とりあえず、上行こうか。」貸して、とまだ硬直したままの杏から買い物袋を奪うと、彼は不透明で白い上三角のボタンを押した。すぐに扉は開いた。わたし達が乗りこんだ重たさはあるのにとてもエレベーター内は静かで、杏はというとわかりやすく沈みこんでいた。わたしはちらっとトカゲさんを見たが、その横顔は能面のようでわたしはそっと視線を下ろした。その先には買い物袋の手提げを握る、細いながらもしっかりとした手があって、わたしは何の飾りもない彼の薬指に、束の間の安らぎを覚えた。
『チーン』
わたしは我に返ると、二人の後ろ姿に引きずられてエレベーターを出た。無言のままリビングに戻ると、わたしは机の上の、ひとりぼっちのコップと目があった。中途半端に麦茶が残ってるガラスのコップは汗をうっすらとかいている。トカゲさんは冷蔵庫に手際よくぽんぽんと肉だの野菜だのしまって、最後に残った買い物袋を三角に折りたたんでいた。杏は長方形の窓のそばにある、トカゲさんの書斎で何かを覗きこんでいた。
「何見てるのぉ。」
わたしはさっきのことは忘れて、横から参加した。そこには一冊のノートが開きっぱなしで、呪詛みたいな文字が乱立していた。
「あれっ」
杏の目が怪しく光ったと思うとわざとらしく、
「先生ってば、ぜんぜーん進んでなくない?」
トカゲさんの肩が大きく弾んだ。
「…ソウダネ。」
「あれれ、おっかしいなぁ〜。あたし外出たの15時で今18時くらい。なんで12行しか進んでないの。」
「よくそんなぐちゃぐちゃ読めたな。」
「我が姉ながらスゴい。」
「っ何年付き合ってんだよバーカ。」
「6年目。」
「真面目に答えないで。」
「わたしが小5の頃ですかね。」
「若っ」「大きくなったね、胡桃さん。」
「おかげさまで。」
「そういうあたし達は老けたね…。」
「やめろ、その攻撃は効果抜群だから。」
「大丈夫、あたしも致命傷。」
グッドサインを示す姉に一体それで大丈夫なのかと口に出しかけたが、わたしはその言葉を飲みこんだ。
『ギュウゥゥウウ』誰かの腹が鳴った。
「杏さん?」
「ちっ違うもん。」
「じゃあ僕だな、そろそろ作るかぁ。」うーむとトカゲさんは背伸びをすると、だるそうにエプロンを装着した。わたしは何か新しい性癖をくすぐられている気がした。
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