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4月初めの、始業式があと三日後に迫っていた日のことだった。
自宅から橋を一本渡って4キロくらいのところに、細い川がある。その川を囲うように咲きほこっている桜並木が俺の春のランニングコースだ。満開の花を見上げて、少し速度をゆるめた。
途中、犬の散歩の人たちとすれ違う。ワイヤレスイヤホンをしてるけど、会釈だけはちゃんとする。
丸っこい柴犬の黒豆みたいな目にウィンクしながら、てくてく走る。桜も中盤までくると、民家が消えて誰もいなくなった。
ずっと先まで続く桜の列。風に舞うピンクの花びら。その根元には死体が眠っている。
死体?
「……!!!!」
思わず声がでそうになって、あわてて自分で自分の口を塞いだ。
桜の木の下にある土手で、寝転がっている男が居たのだ。驚きすぎて、足まで止めてしまった。
(え。ね、寝てるのか?)
こんな寒い朝に?
こんなところで?
ホームレスには見えない。年は俺と同じか、少し上かな。かなり背が高い。雪像みたいな白い肌に、すっきりしているけど整った顔立ち。そうかこういうのを『端正』というのか。眠っていても美形と分かる男が、俺みたいにトレーニングウェアを着て、寝転がっていた。
ずいぶん長い時間、そこにいたのだろう。
その男の服にも顔にも髪にも、桜の花びらが降り積もっていた。桜に埋もれた美男子。なんて絵になるんだ。
その一瞬後、耳元で鳴っていた音楽が消えた。
眠る男の、閉じられた瞼から、涙がすーっとこぼれた。そうやって、誰にも知られることなく人が泣くのを、初めて見た。
今もなお、風にあおられ、彼の指先にも降り積もる桜の花びら。
本当に生きているのだろうか。まるで、魂の入っていない、人形みたいだ。
いつまでも見ていられる。否。いつまでも見ていたかった。不意にその白い瞼が震えた。
目を覚まそうとしている?
なるべく音をたてないように、そっと後ずさりして、元来た道をあわてて走る。
別に悪いことなんてしていないのに、やたらと胸がドキドキしていた。
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