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それからどうなったかと言えば、特に俺の毎日に変化はなかった。道家は勝手にあれこれ心配していたけど、元々ワイヤレスイヤホン拾ってもらっただけの仲だし。向こうは俺の名前すら知らないだろうし、興味もないだろう。
それでも、あの桜並木の道を走っていると、上杉爽平とは何度かすれ違うようになった。と言っても言葉は交わさない。お互いジョギング中だから、すれ違いざま、軽く頭を下げるだけ。
それでもなんとなくうれしかった。
道家からはいろいろ聞いたけど、俺は上杉がそんなに悪いやつには思えないんだ。
むしろなんだろうな。泣いてるところを最初に見たせいか、夢の中の住人みたいな、儚い人に思えた。
そして季節はめぐり、春から夏になり、夏休みになった。
夏の朝は6時でも暑い。脱水症状を防ぐため、水分補給はしっかりとるようにしている。のに。その日に限って小銭を忘れた。ある程度走り終わったから、喉はカラカラだった。自販機の前で、必死でポケットを探りまくったけど、でてこない。
「お金、忘れた?」
夏の暑さを忘れさせる、風鈴みたいな涼やかな声がした。振り返る前から、上杉の声だとわかったけど、振り返って本人がいると、やっぱり驚いてしまう。
「あ、う、うん。ポケットに穴、空いてたみたいで」
ズボンのポケットを引っ張り出して、ぴらぴら広げてみせると、上杉はふっと息を吐き出した。噴き出したのかもしれない。
足が長いから、たった1歩で自販機に近づくと、お金を入れて俺を見た。
「何、飲む?」
「え、いやでも」
「いいよ、同じ高校だし。それに今日はいい日だから奢るよ」
ガコンと音がして、水分補給には最適なスポーツドリンクが出てきた。
「どうぞ」
「あ、ありがとう……」
上杉はすぐには去らなかった。上杉も、同じものを買って飲んでいる。
周りは田んぼだらけで何も無い。静かな、静かすぎる世界で、まだ淡い水色の空を見上げながら、二人でスポドリを飲んでいた。
「あのー。その、今日はいい日って、なんで?」
聞いてからしまったと思った。もしかしてプライベートなことかもしれないし、言いたくないことかもしれない。
「妹の、誕生日なんだ」
噛みしめるように、上杉が言った。うれしそうな顔と声に、なぜか俺がドキッとした。ドキッとした後、あっ!と叫んでしまった。いやこれは叫ぶだろう。
「俺も、同じ日!!!」
「え?」
「俺も、今日、誕生日だった! 妹さんと同じだな!!」
あまりの偶然にうれしくなって叫んでしまった。だけどそれを聞いた上杉の表情は、不思議な、とても不思議なものだった。
悲しそうな、それでいてうれしそうな、よくわからないいろんな感情が混ざりあったような顔で、俺の目を覗き込んできたから、俺はまたしてもドキドキしてしまった。
こいつには会った瞬間から驚かされているような気がする。いやいいけど。驚くことはそんなに嫌いじゃない。退屈よりはずっといいから。
「……そっか。じゃあ、プレゼント、だな」
「え? あ! いや、そ、そんなつもりは……、あのお金はちゃんと返すから!」
「本当にいいよ。奢らせてくれ」
ほとんど押し切られるみたいに言われて、頷くしかなかった。
そうして、8月10日は、誕生日ってこと以外でも、俺にとっては特別な日になったんだ。
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