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2023.08.08 恐怖と狂気ってなんだろう?
人間には、『快』と『苦』しかないらしいんですよ。
え? ニュートラル(中立・中間)ってのがあるんじゃない? って思うんですけど。
中間のものごとにも、そこには快、もしくは苦のどちらかの感情があるんだそうです。
いわゆる恐怖ってのは『苦』なんですけどね、そこにあるのは生きていく先に終わりが見えないっていうか、将来への不安が大きく立ちはだかっているから苦しいわけで、どこまでか我慢すれば終わる、もしくはなんらかの解消方法がわかっている状況であれば、その時間は苦しくても我慢できるかも、と思えるわけです。
人間は想像のつかないもの、こと、時間に恐怖を感じるので、わかってしまえばそこまで恐れる必要はなくなるわけですね。
恐怖って、自分の身に降りかかってくるのはとっても不快なんですけど、自分は安全だと確約されている場所から、恐怖を体験している者に共感するのは娯楽となるんです。
まず『あり得ない』状況を、安全な場所で楽しむことができるわけですから。
これらは恐怖だけに限りませんが。
では狂気とは、どういうことだろう。
恐怖にいると狂気にさらされるのか、と思えばそうでもないんですよね。
狂気のさなかにいる人間は、映画のなかに出てくるように錯乱してわーわー騒ぐ印象をもっていたりしませんか?
狂気って、正常の基準点がズレることです。
ここでいう正常ってのがどんなものかは、お国柄や時代によっても変わるものなのでコレ! といいきることはできませんが、一般的な常識みたいなもの、と言えばいいのかな。
このズレというものは、静かに狂うので、狂い切った人、つまり狂気にある人は騒いだりしないんですよ。
騒ぐのは、正常と異常の狭間にいて、自らがズレていく感覚に耐えきれず、苦しむさなかにある人の、助けを求める悲鳴のようなもの、だからだそうです。
この情報を知って、ああ、と納得をしていました。
あれね、さなかにいると自分がおかしいことに気づけない。
周囲から基準点がいつのまにかズレているのに、そのなかにいる自分は正気のまま、ひたすら正しいわけです。
大概は心理的、身体的な多大な苦痛があって、それをなんとか受け入れるために自分を変質させているんですけど、変質した自分を拒絶するわけにいかないので、正しい世界にいると感じている。
たったひとりの正しい世界。疑いもせず、正しい世界で暮らしているので、周囲が間違ってるといっても聞き入れないんですね。
自分がおかしい、とわかるのは、正常(その世界の常識範囲)の域に感覚が戻ってきてから気づけるんです。
わたしは流産に近い日数で産んだ次女を、1ヶ月ほどで失っています。
死産だったら、もうちょっと違っていたかもしれないんですけど、産まれてきたときは仮死状態で、なんとか持ち直したと思ったら県下で2番目に小さい未熟児で、なおかつ心臓に穴が空いていて、そういう症状がでるのはダウン症の可能性があり、心臓手術をしなくてはならず、あとから知った手術の金額は400万(医療費免除で大感謝)……と怒涛の宣告を受けてですね。
ああ、あの頃は地の底へと転げ落ちるかのように日々が暗く、つらかった。
そもそも長女のときと同じく(もしくはそれ以上の)緊急入院になってしまって、総合病院ですら対応ができないとわかって医師が同乗しての救急車の転院、まともに産めない自分を責めてるところに、不意打ちの破水をして、もうどうにもならない恐怖しかない状態で宿直だった医師がインターンで、こっちも狼狽し切ってる。大量出血(といっても輸血まではいかなかった)で、胎児の心音もない……。
いやあ、インターンだった若い女医さん、本当に気の毒だったなぁ。
こっちの身体に残ったのは、ためらい傷付きの古式帝王切開12センチ斜め切りの手術跡。
しかも、切ったのに下から出ちゃって、まさに切り損ですよ。下っ腹の筋肉縦に切っちゃってるから、再生しないし。
なかなかこんな体験しないよ?
きっとね、訴訟とかされたらどうしようとか考えてたんじゃないかな。でもまあ、こっちはそんな余裕もなかったけど。
出産したら腹にでっかい傷があるのに早々に退院させられて、超未熟児対応の新生児特定集中治療室に毎日通うことになるうちに、それはもうこの世の暗部を覗くようになるわけですよ。
人の闇というか、自覚してなかった汚く醜い部分をとことんつきつけられて、消化する方法もわからず、どんどん追い込まれていくような。
脳のどこかが壊れる感覚がたしかにあったんですよね。
頭を振ると、外れた螺子の音がするような。だいじょうぶ、と思って、傷跡を確かめるとかさぶただと思っていたものがそうでなくて、いまだにどくどくと溢れてくる血に狼狽えるような。
そんな感じ。
忘れられない、病院で見た、障がいのある子どもたちを連れた母親の顔。将来の自分の姿だと想像し、心臓の手術が無事終わっても刻々と弱っていく我が子の姿。
人が、こんな状態になっても強制的に生き続けさせられる現実と、見たこともない色に変わって、刻々と干からびていく赤子の肌。死にゆく姿を見ながら、まわりからは持ち直すことを信じましょうと言われ続けるのに、信じられない日々、現実と非現実の境界線がわからなくなって、どうしたらいいかわからない、終わりなき絶望。
終わったときのほっとした自分の狭隘さに嫌気が刺して、ほかの人たちと同じようにふつうでいられない自分と折り合いをつけるために基準点がズレた。
いま思うとおかしかったんだよ、自分。
でも、あのときはおかしいと思わなかったんだよなぁ。
だから、なんとなくわかるんだよね。
随分前に大きな事件になった、障がいのある人たちを皆殺しにした犯人の狂気。
たぶん、犯行を悪いと思ってないと思う。実際、わからなくはない自分がいるんだよ。
闇の中を覗きすぎてね、基準点がズレちゃったんだよね。
おそらく、ズレる前には狂気に染まるのに抵抗する時期があったはずなんだよ。
だから、そうなるまえに離れるべきだったんだよ。
血のつながりのある関係者はなかなか難しいけど、まったくの他人は距離をとれば縁が切れるんだから。仕事を辞めればよかったんだろうね。
あのひとは、折り合いがそっちに向いちゃったんだろうと思う。
あるB級ホラー映画で、「生者が、死んだ者の死ぬ瞬間を思い返すたびに、死者はなんども殺されて苦しむ」というくだりがありました。
内容そのものは稚拙だったんだけど、このセリフだけは当時、生きる折り合いを探す自分には強く刺さったんです。
死は、生者だけに意味があるもの、死者にはもはや意味がない、と気付いたのは、次女が亡くなってから。
次女ばかり考えてて後ろ向きだったわたしの気持ちが変わったのは、長女へと向けるほうが大事だと気づかされたからです。生きているほうの娘が家庭環境の変化に気づいて、幼いながらも不安を感じていると知って、はじめて目が覚めた気がしました。
生きる者は、生きていく者のことを考えて生きるべきだと教えられました。
あれから15年が経ちました。
なぜこんなことを書こうと思ったかというと、朝ドラの「らんまん」で2歳になった長女をはしかで失う回を観たからです。
万太郎と寿恵子の夫婦が打ちひしがれるシーンで、過去を悔い、自分のせいだと言い合うんだけど、あのまま闇堕ちせずにふたたび強く立ち上がろうとする場面で思い出したから。
寿恵子が夜中にふと目覚めて、長女園子の姿を探して表に出る、あの現実と非現実を混同する感覚とか、すごくよくわかるんだよね。
万太郎が「善く生きて、生き抜いた先に園ちゃんに会いに行こう」と言った姿に未来への不安を吹き飛ばそうとする、強い正気があったから、あの夫婦が狂うことはなかったように思う。
じつは、当時夫もわたしに言った。
「過去を後悔してもしかたない」「反省したら、これからを考えよう」
恐怖は、想像の及ばない将来に強い不安を感じるために起こる。
狂気は、生きるための折り合いをつけるために、正常の基軸がズレるために起こる。
もうひとつ言えば、人間は『死』自体が怖いわけではなくて、それに付随する予測不可能な事態が恐ろしいから、恐れる。
身体に起こる異常は苦しいし、あの状態のさなかってものすごい恐怖だからね。
『死』という終わりがなければ、それこそ救いがないんじゃないかな。
ホラーの物語ならば、恐怖とは、安易に『死が怖い』『死を恐れる』のではなくて、むしろ『死』という救いのある終わりが、真の終わりとならないことのほうが恐ろしいんじゃないかな、と考えています。
でもどっちかというと生前に処分できなかったものを、生きている者たちに見られてしまうほうが、死の直前の恐怖としては焦る気持ちがはるかにヤバいのかも?
PCのハードディスクを破壊するオプションとか、考える気持ちもわからなくはないかな。まあそれも死んだら、考えるひまなく意識が飛んで終わりなんだろうだけどね。
いや、見られて困るもんも、別にないんだからね!
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