2024.07.16 人生の終末を考える。

1/1
前へ
/195ページ
次へ

2024.07.16 人生の終末を考える。

結婚当初から、同居の話がありました。 義実家は、姑と暮らしていたので、当たり前のように同居、ということを言われた記憶があります。 結婚当初、夫にも「母親と仲良くやってもらって、俺が邪魔だと思うくらいになってほしい」と言われたことがあります。 「無理!!!」と宣言しました。 似たような性格、興味など共通点があるならまだしも、昭和の生活をいまだに続けている家庭、しかも趣味らしいものも持たず、他人への共感が薄い(食事会をすると言っているのに、直前に別の店で好きなものを食べてきて予約した料理に手をつけないとか、写真を両家で撮る予定で半年も前から伝えているのに、直前に病院の予約を入れて断ってくるとか、感性の違いにどういうことなの、と思うこと多々)ため、まず同居の選択はできませんでした。 同居するならもったいないから、台所はひとつでいいわ、と言われたうえで、義母は軽い気持ちだったと思いますが「はやく楽がしたいわ」と言われて、「あー」と思ったのもあります。 結婚十年経て、毎月のアパート代がもったいないと思い、夫と相談して居住地が気に入っていたために近辺で自宅を購入しました。 夫の実家と私の実家、車で30分ほどの場所です。 義母は姑とともに暮らしてきたので、自分の選択ができなかったようです。 たぶん、自分の夫と姑の息子で取り合いがあったのだろうな、とか、姑に孫たちを可愛がってもらったとか……いい姑さんだったと本人の口から聞いていますが、それなりに苦労もあったんだろうな、とは思います。 ただ、女の二馬力で家のなかを回してきたので、義父は仕事と自分の好きなことだけをして、子育てにはまったく参加しなかったようです。 結婚し、娘を授かったころにお姑さんは90歳で亡くなりました。 非常に優しく、夫の家族に招き入れてもらって相手をしていただいた記憶があり、義母のいうとおりに本当にいい方だったのだろうとは思います。 でも、たぶん義母の生活には、夫(姑の息子)や子(姑の孫)の取り合いもあったんだろうな、と。 ご挨拶に行った時に、たまたま義父の方を揉もうと思ったら「私のを取らないで」と強い口調で言われたのを覚えているからです。 義父はなかなかに癖のある人物で、結婚後も私は日常会話自体、ほとんどしたことはありませんでした。 義母の入院時に二度、自宅で預かりましたが、義父とは話がさっぱり続かず、会話に困った記憶しかないです。(娘に丸投げしてた💦) 夫の弟は独身で、車で帰ってこられる距離ですが、会社に通いやすい場所で暮らしています。 次男坊が嫁をもらわなかったので、私が嫁として出来を比較されることもなく、親戚関係も離婚したり、その子どもに問題があったりして、生活が安定していた我が家に愚痴を言われることもなく救われていたように感じます。 60歳で義父が定年を迎え、義両親ふたりで暮らし始めてから、ようやく夫との生活が送れるようになったせいか、義母は義父を甘やかしていた感があります。 胃がんの手術や誤嚥性肺炎で入院しても、病院の食事がまずいという義父に自宅の食事を持ち込んだり、点滴を引き抜いて帰ろうとするワガママを聞いて、早めに退院させたりしてました。 義父のいうことを聞き過ぎて、なにもしないし、なにもさせないから70歳半ばあたりから義父の認知があやしくなってきました。 定年退職をしてから、テレビを見て寝るか、食べて寝るか、ちょっと外出するくらいで、そのうち靴が重いと言い出しました。 エスカレーターの反応が追いつけず、転げ落ちたのもこの頃です。 ただ、2回の胃がんで胃を全摘しているにもかかわらず、とにかくよく食べる。誤嚥性肺炎で何度も入院しているにもかかわらず、内臓がめちゃくちゃ強い。 義実家の親族ほぼ全員が、寝たきりになっても90歳オーバーで亡くなるという、ハイパー長命家系。 義母も要介護一の認定を受け、老老介護になってそろそろどうしようかと思いつつ、義父を自宅で暮らさせたいという義母の希望もあり、時に自宅で義父を預かったりして、できるところまでは様子を見ようと思っていました。 先日、義両親がコロナにかかりました。 義父は肺炎を起こしていたので入院、義母は軽い症状で落ち着き、娘の院試が迫っていることもあって自宅には呼べず、夫が実家に泊まり込んで様子見をしていました。 そして、義父の退院時に病院から電話がかかってきました。夫が、「車で迎えに行くので」と言っても「介護タクシーを呼んでください」と強く伝えられたとのこと。 介護タクシーの運転手は、救命救急士の資格を持っている方らしく、つまりは素人では自宅に連れ帰れない状態になっていることを示します。 実家の古い家では、玄関に高い上がりかまち(30センチくらいの高さ)があり、素人男性ではとても持ち上げられない現状を目の当たりにして、のちに夫が「あれはもう、無理だと思った」とこぼしました。 自宅に帰ってきた義父は、翌日自宅介護のケアをしてくださるケアマネさんによって尿管閉塞を指摘されて、再度入院となりました。 義母、長男である夫、私、次男である義弟で見舞いに行ってきました。 一目見たときには、ずいぶん回復したと思いました。 いますぐどうこうするほどの緊急性はない。 けれど、これは……無理だと感じました。 親族は、元気になれば、リハビリをすれば、立って家に帰れるかも、と口ぐちに言って期待をする。 でも、どうみてもそれは厳しいと私は思いました。 もともと60歳の定年後、テレビを見続け、日々のご飯だけを楽しみに、なにもせず、させず、自宅にこもり、ほとんど動かないで、それでいてデイケアは老人の行くところだと行って行きたがらず、刺激のない毎日で認知能力がどんどん下がって、靴が重いといって外出が難しくなり、エスカレーターで転げ落ちて救急車呼ばれるほどに足腰が弱っている人間が、リハビリする気力すらもう皆無の状態となっている。 車椅子に乗らないと移動もできない。なんとか意思表示はあるけど、発する声が言葉になっていない。支えてもらっても立つことができない。 歩こうと思う意思がない。回復できる見込みがかなり厳しいのは、見ればわかります。 回復できる人は、その前から自力で歩き回っていて、動けるようになりたい、歩き回りたいと考える。 年齢が60歳くらいならまだしも、大体もう90近くて、認知も落ちていて、すでに足腰も立たなくなっていて、一旦は良くなったとしてもあとは弱る一方じゃないですか。 身内は、昔の元気な姿を覚えているから、元通りになるかもなんて希望を持ってしまう。けど、世の(ことわり)はそんなに甘くない。 看護師の方にも「自宅介護か施設かの二択で、できるかできないか、先をどうするか」考えるように告げられました。 自宅介護は事実上不可能。 まず車椅子が入らない。段差が多すぎる。 本人の排泄物に対する嫌悪感も消失したので、対応が非常に厳しい。 専門の施設で、分業による専門性の理にかなってる部分とか、一番快適にいられる方法とかを考慮すると、もう選ぶ道はひとつしか残ってない。 義母には「もうあなたたちで決めてください」と言われました。 そうか、もう……自分で決められないのか、と思ってしまいました。 思えば、すべてそうだったなと。ずっと先延ばしにしてきた理由がそれだったから。いつもこちら側に決めてもらいたがっていた気がします。 唯一の救いは、あれほど病院を嫌がって、点滴の針を抜いて「早く自宅に帰りたい」と言っていた義父が、帰る意思すら覚えていないこと。 「帰りたい」と思うこともなくその場で暮らせるのであれば、刺激のない自宅よりは、多数のひとと関わり、快適に過ごせる場所のほうがいいと思えます。 夫も義弟もとても優しくて、親思いの息子たちだから、義両親の子育ては立派に終わってると思う。 でも、もっとまえに、いろいろ方法があって、そちらを選んでいたら今の結果とは違っていたかもしれないけど、こちらが言わない限りなにもしなかった……。自分たちの老後は自分たちで情報を探そうとしたりしない(ネットが使えない)から、自宅のリフォームも行わずに漠然とここまで、なるようになってしまったのかな……。 ただ、きちんと支払える資産は残してあり、先行きの不安を抱えずにすむのは、本当にありがたいことです。 申し訳ないと思いつつも、自分の両親が先を見据えて老後に暮らしやすい場所に引っ越しして、父はまだ外で働いていて走れる身体だし、母も乳がん後に回復して孫と外出して遊んで帰れる体力があるし、夫にも家事をやらせて動かしているのを見ると老後の努力、生活習慣はやはり重要だと思い知らされます。 同時の窮地にならずにすんで、正直なところ助かったと思っています。 現時点で老人ホームが決まるかどうかとか、気持ちが落ち着かないとか、自分の独善性とか、いろいろ(次女の鬼籍のときと同様に)考えさせられています。 人間の終末は、己の思い通りにならないとは言え、なかなかにしんどいです。
/195ページ

最初のコメントを投稿しよう!

27人が本棚に入れています
本棚に追加