一.

1/1
11人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

一.

今はもう、淡々とした(アリ)の行進の(ごと)き、黒い行列。 すすり泣くような声は(すで)に無い。 それは二日前、突然の訃報(ふほう)を聞かされ、病院で彼の遺体を確認した時が佳境(かきょう)であっただろう。 翌日の通夜では、その嗚咽(おえつ)は遠方から飛んできた親族や、親しい友人、彼の経営するレストランの従業員たちへと移り、棺桶(かんおけ)を火葬炉へと収めようとしている本日現在においては、皆、一通りの儀式と感情・思考の(めぐ)りを終え、うつむき、あるいはややぼんやりと、最後列では互いに耳打つ小声なども漏らしながら、ただ目の前の作業に付き従っていた。 彼は若い頃から世界中の高級な店やホテル厨房を回り、各所で多大なる信頼と称賛を浴びてきた、伝説のフレンチ・シェフだった。 某国においては国王御用達(    ごようたし)、しかしそれすらも彼のスケジュール次第では二年待ちになることもあったという。 彼は香辛料、とりわけハーブへの造詣(ぞうけい)が非常に深く、世界中のありとあらゆる香草(ハーブ)にあまねく精通し、納得の行く香りを生み出すためにオリジナル品種のハーブをも自ら生み出すなどしていたため、いつの頃からか『ディユ・ディ・ゼルブ(ハーブの神)』と呼ばれるようになっていた。 (よわい)七十五にしてなお第一線の現役、六人の子供に十九人の孫、経営するレストランを始めとして、世界各地に多くの門下生を抱えていた彼だったが、多忙が原因か、いや、多忙はむしろ彼にとっては日常的な清涼剤、ならば元々持病でも抱えていたのを、周囲に隠していたのか、自分でも気付かずにいたのか。 来週開催される国際サミットの晩餐(ばんさん)を試作している最中、彼はふいに心臓を押さえて床へと倒れ込んだ。 間際(まぎわ)、意識を失うまいと必死に調理台に身を預けた彼だったが、数十のガラスの小瓶(こびん)を並べたボードに(ひじ)が触れ、ボードが(かたむ)き、跳ね上がり、小瓶が宙を舞い、仰向(あおむ)けに虚空(こくう)を見つめる彼の全身を、小瓶からこぼれ出たハーブが香ばしく包み込んだ。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!