初恋

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 一、ロボットは人間に危害を加えてはならない。  生まれた頃から、このボディの中の奥底に埋め込まれた規則は、生きる上で何よりも大前提とされている。  その次に「第一原則に反しない限り、人間の命令に従わなくてはならない」という第一原則を主軸にした規則がある。そして最後に「第一、第二原則に反しない限り、自身を守らなければならない」と、ここでようやく自己防衛の規則が出てくる。  つまり、僕達ロボットやアンドロイドは、全てが人間を優先に生かされている事となる。しかし、それも当たり前だろう。僕達は人間の手から生み出されたもので、その「人間」に危害を加えるという事――人間を傷つけ否定する事――自身の存在意義をも否定しかねない行為であるのだから。  だから、人間の不可解な行動に出くわした時、僕は常に心をフラットに保つように、努めなければならない。相手が怒っていても、泣いていても、笑っていても、その理由が明確でない限り、感情という表現を返さないが懸命である。 「こんな熱いコーヒー飲めるか!」  拳が机を激しく打ち鳴らし、置かれたコーヒーカップが大きく震え、ソーサーの中に茶色い液体が零れる。僕はそれに「あ、拭かなきゃ」と思いつつも、突然怒鳴り出した客に、どんな感情を表せば適切だろうかと考える。彼の温度は怒りの割に上昇せず、サーモグラフィは正常にオレンジ色を保っている。しかし、その声量からして怒っている事は間違いない。怒っていなければ、机を激しく叩くなんて、予測不可能な幼児でない限りは精神異常として、病院へと行くべきだと思う。 「おい、聞いてるのか!」  なおも男は叫んで、叱責を続ける。こういう時は何と言うべきか、 「はい、申し訳ございません」  僕は男に向かって、店長に教えてもらった通り、頭を下げた。しかし、男はぶつくさと呟く事を止めない。これだから若い奴は礼儀ってものを知らない、火傷したらどうしてくれるんだ。次から次へと出てくる文句に、一体この人はどうしたのだろうかと、僕はいっそ不可解な気持ちになってくる。見ている限り、心拍・体温ともに正常で、身体的怒りの前兆や兆候が見られない。つまり、怒ってないのに、怒っているのだ。それとも、僕の眼球のセンサーに問題が生じているのだろうか。 「あんた、さっきからうるせンだよ」  不意に背後から声が聞こえてくる。  振り返ると、そこには黒いキャップを目深く被った高身長の男が立っていた。ツバの影に隠れる眼差しを暗視スコープに切り替えて、彼を見上げると、くっきりとした二重の美しい双眸と目が合った。黄金比とも言える整ったアーモンド形の目が、確かに僕を見下ろした。しかし、それも一瞬で、その眼差しは明らかな怒りを宿しながら、先程から喚いている男へと注がれた。男の体温が正常に微かな上昇をしている。  怒りはこれだ。どうやら、俺のセンサーは何も間違っていないようだ。 「あんた、文句付けたいだけだろ」 「な、なんだと!」  憤慨した男がまた机を叩いた。店内の空気が固まる。  今度ばかりはコーヒーが熱いと言った男も、正常な怒りの兆候が見られ始める。心拍数共に上昇、少し緊張もあるようだ。目の前に表示されるハートの心臓マークの横に記された数字が明らかに数値を持ち上げていく。  暫く彼といがみ睨み合うと、先に根を上げたのは、コーヒーを零した男の方だった。  男は最後に両掌で机を叩くと、肩をいからせながら席を立ち、店を出て行った。残されたコーヒーに、窓から差し込む午後の陽光が、温かく降り注いでいた。 「このコーヒー代、俺に付けといて下さい。追い帰したの俺だし」  慌てて振り返ると、男は僕の言葉も待たずにつかつかと一人掛けのソファへと戻って行く。ゆったりと腰を下ろすと、彼はやはりキャップを外すことなく、テーブルから分厚い文庫本を手に取った。栞代わりに挟まれたコンビニのレシートが、テーブルの表面を撫でながら滑る。 「ミギワくん、何かあった?」  肩を叩かれて顔を上げると、買い出しに出ていた店長が不安そうに僕を覗き込んでいた。  僕は一連の事を報告した。店長は「そんな事があったの?」と眼鏡の奥にあるつぶらな目を丸く見開いて(見開いても小さい)背後で本を読む男へとかけ寄り、何度も頭を下げた。彼はそんな店長に「俺が不愉快だったから」と、先程よりも人当たりの柔らかい表情でそう告げた。僕は店長の隣に並ぶと「ありがとうございました」と頭を下げる。こういう時はこうするのが正しいと、教わっていた。 「あんたも悪かったな、丸く収まるとこだったのに」  彼はそう言うと、僕にもその柔らかな眼差しを向けてくれた。そして本に集中したいと言うように、視線を伏せた男に、僕と店長はその場を静かに後にすると、調理兼カウンターに戻った。 「申し訳ありません、出て行った男からお代頂けませんでした」  僕がそう告げると、店長は首を横に振った。 「それは大丈夫だよ」 「あの男の人が払うと」 「それはだめだよ」  だめなのか。 「あの人はあのコーヒーを飲んでないし、君を助けようとしてくれたんだから。……一人にして悪かったね、そんな人がいるなんて……」 「いえ」  申し訳なさそうに眉を下げると、店長は雨に濡れた老犬みたいな雰囲気を纏う。僕は首を横に振って、彼の買ってきた牛乳や生クリームを冷蔵庫に仕舞った。 「そう言う時はね、店長が対応しますので、少々お待ちくださいって言ってね。それから俺の事呼んでね、こうやって外に出てたら、電話して」 「分かりました」  頷くと、店長は太くて丸いウインナーみたいな指の付いた掌で僕の髪を撫でると、 「びっくりしたね」  と苦く笑った。僕は「大丈夫です。少し不可解でしたけれど」と呟いた。 「体温、心拍数の上昇と感情の波が一致しませんでしたので、もしかしたら彼は何かしらの精神疾患を……」 「ミギワ君、そういう文句を言う機会をうかがってる人もいるんだよ」  と、言葉を遮るように制されて、それ以上の説明を止めた。 「そうですか」 「そうそう。気にしないでね」 「分かりました」  僕は眼球を動かして、店内を見渡した。家具屋を営んでいた店長がセレクトしたソファの席が五つにカウンター席が四つの、広々とした店内は程よく人が埋まり、それぞれが思い思いの時間を過ごしている。本を持つ人もいれば、分厚い参考書を開いて、パソコンを弄る人もいるし、ぼんやりと天井を眺める人もいる。天井には天窓が付いていて、顔を上げると、温かい光が優しさを持って頬や額を温めてくれるのだ。 「少しずつ知って行こうね」 「……はい」  僕は頷いて、すみませーん、と上がる手に「はい」と応えて、カウンターを後にした。 「いつもありがとうございます。ホットコーヒーミルク多めのお砂糖三つでよろしいでしょうか?」  席に深く腰を掛けた男に、そう声を掛けながら冷たい檸檬水の入ったグラスをテーブルに置くと、彼は少し驚いたような顔で僕を見上げた。  天窓にしとしとと静かに降り注ぐ雨の音が、彼と僕の間を少しずつ濡らしていく。 「……ホットサンドも」 「はい、チーズ多めですね」  ここ数日――あの日から彼はほぼ毎日のように通い詰めてくれている。時間は疎らではあるものの注文するのはホットコーヒーと、時々ホットサンドかモンブランと決まっていた。何となく彼を観察していたら覚えたのだ。ミルクの量と、砂糖の数、ホットサンドを食べる時の表情筋の動き。チーズが多いところで彼は少し嬉しそうに、唇の端を緩ませるのだ。 「なんで分かるの?」  訝し気に尋ねられ、僕は何か間違っただろうかと考える。いや、間違いはないはずだ。数や量に関して、僕が間違えるはずがない。――だとすれば、と僕は彼の双眸を見つめ返した。微かな警戒心の滲む眼差しに、ああ、と僕は理解する。 「申し訳ありません。時折貴方を見ていまして、覚えてしまいました。不要であれば削除しますので」 「え、削除?」  意味が分からないという顔で、彼が眉間に眉を寄せる。深い、不安、疑心暗鬼。そんな負の要素が表情に募って行く。 「まあいいや。……覚えてもらうのは嬉しいよ。ありがと」 「そうですか」  彼はいつも通りキャップのツバを目深に被ると、指先で更にそれを深く下げた。 「なら、そちらでご用意させて頂きます」 「あ、ねえ」  カウンターにいる店長へと注文を伝えに行こうと踵を返すと同時に、声を掛けられ、注文の追加かと振り返る。 「あれから、あの人来た?」 「いえ、僕が記憶する限りではご来店はあれが初めてで最後かと思います」  そうなんだ、と少しだけ安心したように彼は息を漏らした。心音は正常に脈を打ち、穏やかなようである。 「それが何か?」 「いや、また嫌がらせされてねえかなって」 「お気遣いありがとうございます。そのような事は今は起こっておりませんし、対策も万全ですので、お客様はごゆっくりとお過ごしくださいませ」  そう一礼すると、今度こそ彼の席から離れる。カウンターにいる店長に注文を伝えると、ミギワ君、と小さく呼ばれた。 「彼、見た事ない?」 「はい、常連様です」 「いや、テレビとかで」  店長の言葉に、家財具を殆ど持ってない僕は首を横に振るしかなかった。頭の中にあるデータベースにも、彼の顔はここ数日で得た店内での記録しか残っていない。ページを捲る細い指先、真剣な眼差し、優しい瞳の色。穏やかな声。最初に受けた印象からは遠くなっていく彼の記録が頭脳に埋め込まれたチップの中で再生される。 「彼、森山裕生だよ。最近人気出て来た若手俳優の!」  ミーハーな口調で店長が、餌が貰えて嬉しいと必死にアピールする老犬のように告げる。僕は「そうなんですか」と、特に興味もないのでそう告げると、店長は「通りでオーラがあるよね」と、満足そうに頷く。 「オーラというのは、幻想ですよ」 「もう、ミギワ君夢がないよ~」  と、店長が不満そうに眉を顰めてから、ドリッパーに引いた豆をざくざくと入れて、沸騰したケトルを持ち上げる。  丁寧に細い糸のような湯が、ゆっくりとサークルを描きながら注がれていく。鼻の奥にあるセンサーがコーヒーの香りに反応する「美味しい香り」とインプットされたそれが、データとして脳のチップに蓄積されていく。 「モリヤマ、ユウセイ……」  呟いたその名前と共に。  僕はコーヒーを淹れる店長の隣で、森山裕生が喜びそうな、チーズを少し多めにしたハムのホットサンドを作る。 「でもなんで彼がこんなところに居るんだろうねえ」  カウンターに誰も居ない事を良い事に、店長が小声でなおも「森山裕生」について疑問を投げてくる。 「店長、お客様への詮索は、良くないと自分で言ってましたよ。僕がここで働き始めた四百五十七日前の十三時四十二分に」 「ミギワ君、手厳しい」 「事実です」  そう告げると店長はコーヒーを淹れ終えたカップをソーサーに置いた。僕は丁度焼き上がったホットサンドを薄茶色の紙に包むと、白い皿に乗せて、コーヒーと共に彼の席へと向かう。  窓の外に広がる水分を含んで丸く肥えた鼠色の雲が、世界や店内を青灰色の空気でやんわりと包み込み、静かに空気を濡らす。  焦げ茶色の板張りを静かに歩いて、彼の傍に膝をついて、脚の低いテーブルに注文の品を置くと、彼は本から視線を上げた。 「ありがと」 「いえ」 「ねえ、俺の名前分かった?」  言われて顔を上げると、悪戯に成功したような少し得意気に笑う彼が居た。 「そっとしておいてくれて、ありがと」 「……僕は、お客様の貴方しか知りませんから」 「はは、ありがと」  彼は嬉しいとも、呆れたとも、何とも表現し難い乾いたように笑って。でも、ありがと、と呟いた声は陽だまりのような温かさがあった。 「砂糖三つは入れ過ぎかと思いますが」 「甘党なんだよ」 「バランスの問題です」 「はぁ? これが俺にはバランス良いんだよ」 「そういうものですか?」 「そういうもんです」  ――なるほど。  埒の開かない会話に、これは個人解釈の域で、趣向なのだと納得して頷くと「納得すンのかよ!」と笑われてしまった。  けれど、彼が何故笑ったのか、僕には何も理解できなかった。  どうして笑ったの?  僕はそう聞きたくて、けれどそれは言わない方が良いのかもしれないとか思って口を噤むと、とりあえず彼の唇の真似をして笑ってみた。  そんな僕に、キャップのつばを少し持ち上げた彼は、しゃがみ込む僕を見下ろすと、変な奴と笑った。  森山裕生は、映画の撮影でこの近くのスタジオに入っているのだと言った。この街を題材にした映画なので、スタジオ外でもこの辺りをぐるぐるしているらしい。そして、暇ができると、このカフェで時間を潰す。 「天井が高いし、静かだし、気に入った」  森山裕生はそう言いながら、ぽちゃぽちゃと角砂糖を三つ入れる。 「本、読まないんですか?」 「俺と話したくねぇっての?」 「見えてると思いますが、僕は今仕事中でして」 「馬鹿にしてる? 分かるっつーの」  そう言うと、彼はミルクを注ぐ。 「あ」 「なんだよ」 「いつもより多いです」  ミルクが。  そう告げると、彼は一瞬僕が何を言っているか分からないみたいな顔をしてから、吹き出すように笑った。良く笑う人だ。しかし、その笑い声は思った以上に天井に響いて店内に広がっていく。僕は咄嗟に彼の口を両手で押さえると、また彼の目がぱちぱちと瞬き、僕を見つめてきた。 「お静かに」 「お前が笑わせたんじゃん」  もごもごとくぐもった声でそう呟くと、彼から手を離す。 「お前の手、コーヒーの匂いするな」 「仕事柄、ですね」 「今度お前がコーヒー淹れてよ」 「店長に聞いてみます」 「そうして」  店内の視線がちらちらと集まって来たので、僕は「失礼します」と立ち上がり、彼の傍を離れて店長のいるカウンターへと戻った。 「私語は少し、だよ」  軽く窘められ、すみません、と謝罪すると、僕は森山裕生に振り返る。彼は既にここに来た頃よりも半分以上読み進んだ文庫本へと、視線を落としていた。けれど、すぐに僕の視線に気づいた彼はちらりとこちらに視線を向けると、小さく笑って、指先に挟んだままの栞代わりのレシートを振った。  気障な仕草が妙に似合う――レシートに書かれた買い物リストは、エナジードリンクと梅干しのおにぎりという妙な組み合わせだけど。 「かっこいいねえ」  感心したように、店長が呟く。  かっこいい。確かに整った顔立ちや長い脚などの整った身体のバランスは、一般人からは少し離れた造形美を感じさせるものがある。 「ミギワ君はさ、好みってあるの?」 「ありません」 「はっきり言うねえ」  少しお道化た様に店長が呟く。 「僕等に好ましい好ましくないという区別は、人間への干渉となります。それは危害を加えるという問題となる可能性が十分に考えられますので、第一原則に抵触します」  つまり人に対して個人的な感情を持った時点で、僕等は原則を破った事になる。 「えー……それ酷いんじゃない?」 「それが僕等に課せられた法ですから」  そう答えると、店長は浅い溜息を吐き「法ねえ」と納得できていないように呟いた。  僕は視線を森山裕生へともう一度戻した。今度彼は僕へと視線を向けることはなく、大人しく佇むようにして、カフェの空気に馴染んで、沁み込んでいた。 「六月はね、梅雨って言って、よく雨が降るんだよ」  店長が一年前に教えてくれた。情報として持っていた梅雨と言うものを感じながら、天井にある大きな硝子窓を見上げると、幾つもの水滴がぱたぱたと硝子を叩き、幾筋もの流れを作っては縁へと流れていく。 「雨ばっかで鬱陶しいな」 「そうですか?」 「傘めんどくせえじゃん」  そう言いながら二人で天窓を眺めていると、森山裕生はずるずるとソファ席に浅く腰を掛けた。大きな欠伸をして、キャップを取って、それをテーブルに放り投げる。さらさらと流れる茶髪に、露わになった白い肌と整った双眸と小さな鼻梁。アンドロイドでも、なかなかこんなふうに顔立ちの整っている個体はいない。 「ミギワ、モンブランちょ―だい」 「ご注文有り難うございます」 「二個ちょうだい」 「二個も食べるんですか?」 「一個はお前がここで食うの」  そう言いながら彼とテーブル越しに対面する形で置かれた、空のソファを指さす。  僕は小さな丸い形をしたソファを見てから、彼に振り返る。彼は顔にキャップを被せて天井を仰いでいた。 「……ダメです」 「……コーヒーも付ける」 「勤務中です」  それに人が食べるものを僕の身体は受け付けない。食べるふりはできるけれど、後日絶対にラボに向かい、体内に溜まったそれを取り除かなければ、不具合を起こしてしまう。しかし、明日は休みではないから、無理だ。食事の処理には時間がかかる。 「ケチ」 「ケチではありません、正当な理由です」 「真面目」 「褒めていただき有り難うございます」 「嫌味だっつの」  森山裕生はそう言いながら、肩を震わせて笑った。僕はやはり彼が何故笑ったのか分からなかったけれど、彼と一緒に少しだけ笑ってみたくて、普段動かさない唇の右端をひくつかせてみる。しかし、彼みたいな笑い声は零れてくれなくて、直ぐにやめた。  出勤する駅前で、昨日はなかったポスターが、駅ビルの外壁に大きく掲げられていた。そこに映るのは、新しいスマホ機種の宣伝だった。黒髪になった彼はオールバックに髪を撫でつけ、いつものような少年らしさはどこにもない。  僕は「あ、森山裕生」と呟いた。すると、頭の中で今まで見て来た彼の記録が、ランダムにつながりながら流れ始める。コーヒーを飲む横顔、ケーキを食べる口元。僕の言葉に笑う彼の双眸。笑い声。長い足を窮屈そうにテーブルの下で組む仕草。栞代わりのコンビニのレシート。  身体の中で微かな熱を感知した。僕は驚いて何処の故障かと、胸や首筋に触れる。しかし、どこにも触れても感じるような異変はなく、首を傾げる他、すべきことが分からなかった。  カフェに着いて、いつも通りに制服代わりのエプロンを纏うと、店内へと出た。  森山裕生は既にいつもの席を陣取り、本を読んでいた。まだ注文したばかりなのだろう。コーヒーからゆっくりとした白い湯気が立っている。僕に気が付いた彼は、小さく手を振ってくれた。僕はそれに返事をするように、頭を下げた。  彼はコーヒーカップに唇を寄せると、すぐに立ち上がった。もう帰るのだろうか、そんな予感がして身体の中の重心がぶれるような不安定感に襲われる。  こんなに早く来るのも帰ろうとするのも、初めての事だった。天窓から降り注ぐ午後の柔らかな陽光が、きらきらと彼の明るい髪色を輝かせていた。 「もう帰るんですか?」  レジカウンターまで来た彼から伝票と受け取り、そう呟くと、自分が思う以上に声が沈んでいて、身体の中にある部品が、ずれてガシャンと、音を立てそうになる。 「撮影、昨日で終わっててさ」 「じゃあ、もう来れないんですね」  そう呟くと、身体の中の歯車がずれたまま音を立てながら、僕の思考回路をむやみやたらに掻き回す。  何これ、なんだろう。 「……俺、まだミギワに話したい事あるんだ」  そう言いながら番号の描かれた紙を差し出される。僕は何故か震えている指先でそれを受け取る。  僕はラボに行って、検査受ける方が良いかな。 「ミギワの事……」  キャップを深く被り直して、彼が言う。彼の心音と体温が、急激に上昇していくのが分かる。それに感電したように、僕の体温も急上昇し、調整が効いてくれない。  けれど、不思議と不安よりも、満たされた思いで、僕はただ彼を見つめていた。  ――もしかしてこれは。 「お前の事、好きなんだ。連絡、待ってる」 彼はお金をトレイにおいて、店を出て行った。  彼の声が鼓膜のセンサーの辺りでぐるぐるとめぐって離れてくれない。 「……僕は」  そう呟くと、彼と見えない糸で繋がった気がした。  ――あなたが好き。  すると、身体の中で小さな爆発音が響いて、思考が白い闇の中で停止した。
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