星降る夜に

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 遮るものが何もない広い空。  陽光に反射して眩い光を放つ青い海。  夜になれば、満点の星。  そんな生まれ育った小さな島が私は嫌いだった。  潮風ですぐに錆び付いてしまう自転車。  大きすぎる空。果てしない海。  夜になれば闇に覆われるこの島が。  早く出たい。時の流れが止まってしまっているこの場所から早く逃れたい。  その一心で、猛勉強して私は見事東京の大学に合格した。  やっとこの忌まわしき島を出られる。ここで過ごしてきた仲間たちと離れるのは、確かに寂しい気はする。けれど、それ以上に夢と希望、煌びやかな世界。それしか私の目には入らなかった。  その日を待ち遠しく毎日を過ごし、ようやく明日はこの島を出る旅立ちの日。  とうとう見納めだ。  そう思い一樹を誘って浜辺にやって来た。小さな島は同級生全員が幼少期からの顔馴染みだらけ。誰を誘ってもよかったが、何となく家から一番近くに住んでいる一樹を誘っていた。  唯一この島でお気に入りの場所は夕暮れ時の海。  白い浜辺に座ると、細い隙間を作った長い影が二つ砂の上に映し出されていた。  潮騒が耳に心地よく響くその奥で、いつも以上に燃えるようなオレンジが海を染め上がっていく。  考えてみたら、この瞬間の海だけは、本当に好きだったなと思う。落ち込んだ時。黙っていても、波の音ですべてをかき消し、この海がこの先のどこかへ流し、浄化してくれた。  失いそうになって、初めて気付く手放したくなかった景色。  だけど、引いていく波に乗せれば難なく流せる程度の小さな離愁だ。  だから、波音に合わせて少しだけ声をのせた。 「本当に島が嫌で嫌で、仕方がなかったけど、この景色だけは好きだったなぁ」  別に何の答えも求めているわけではなかった。ただ、この島を出ることへの唯一の名残惜しさを二度と戻らないように流したかっただけだった。 けれど、隣に並んでいた一樹の耳には波に乗ることなく一直線に届いたようだった。 「俺も好きだったよ」  はっとして隣を見ると、一樹の横顔はオレンジ色に染められて遠い海の向こうを見つめていた。交わることのない視線を追うように、同じ方向へ私も果てへと視線を伸ばす。  沈黙は波音で消されて、浮かぶ船と数少ない雲の端が残照に染まっていく。  星たちより一足早くあった満月は輪郭を鮮明にしながら、輝きを放ち始めていく。彩り豊かだった景色は、深い群青色に変わって地平線の境界線も空に飲まれるように同化していった。その闇の奥へ流しきれなかった思いを閉じ込めて、私は立ち上がった。   「付き合ってくれて、ありがとね。これで、心置きなく旅立てる」  ささやかな浜辺の街灯。座ったままぼんやり映し出された一樹の顔に笑いかけると立ち上がった一樹。その視線が見上げるほど高くなる。小さい頃は私のほうが背が高かったのに、いつの間にか一樹の背は高くなっていた。  閉鎖されたこの場所は、時間も止まって、何一つ変わらないと思っていたけれど。  そんな中でも変わっていったものは確かにあったんだと、今更ながら気付く。近すぎて見えなくなっていたものが、今更ながら見え始めて本当に笑ってしまうくらい今更だと思う。    その一瞬のことだった。  伸びてきた一樹の手。私の手を掴んで、引かれて、その胸に収まっていた。いつだって数センチ、空いていた隙間。それが消えていた。   「がんばれよ」  耳元で聞こえた声が震えて胸の中心に刻まれるようにすっと染み込んでいく。  私の心臓が跳ね上がる暇さえも与えず、背中を優しく叩かれて一樹はすぐに身を離し、私を置いて闇と波音に紛れていった。  こんな大胆なことができたのは最後だったからだと思う。  その日の夜中。  夕暮れの熱さが忘れられず、私は夜に染まりきった窓の外を眺めていた。  旅立ちの時まで、あと数時間。  あれだけ早く出たいと願っていたのに、最後に未練が残るなんて思いもしなかった。  星降る夜空から、気付くのが遅すぎた恋心が胸に落ちていた。
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