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それから1週間ほどあとのことだ。
蒼佑くんから「今日、結を迎えに行く」と連絡があった。
笹原さんと一緒に迎えに行って、そのままあの家で3人の暮らしが始まる。蒼佑くんはできるだけ早くバイトでも仕事が見つかればいいけどな、と言っていたけど、それはかなり先のことになるんじゃないだろうか。
無理をしてはいけない。甘えさせてくれる人がいるなら、場所があるなら、存分に甘えていいと思う。無理をしたら、心は簡単に壊れてしまう。
長い時間がかかるかもしれないけど、雪のお母さんにはどうか幸せになってもらいたいと思っている。
数時間後“無事に帰った”と改めて蒼佑くんからメッセージが届き、雪にもそれを伝えた。
雪は小さく「そうなんや」と呟いただけだったけど、その顔はどこか安心したように見えて、雪だってこの日をずっと待っていたんだよな、とそう思った。
だけどその日から、雪の様子が少しおかしい。ぼんやりしていることが多くなって、夜もうまく眠れないのかベッドの中でモゾモゾしている。
そして、今日は、
ガチャン…ッ
キッチンから聞こえた何かが割れる音。
「雪っ?どうした?」
「あ…、ごめん」
慌てて向かえば床に散らばったグラスの破片が目に入る。
「雪、大丈夫?怪我してない?」
「あ、うん、大丈夫」
スリッパを履いているから足元は大丈夫そうかな。手も切れてたり血が出ている様子もない。
「良かった。これ片付けちゃうから、雪リビング行ってな?」
「でも…」
眉を八の字に下げてしょんぼり顔の雪。
「あ、じゃあさ、向こうのクローゼットにちっちゃい箒とちりとりあったよね?それ持ってきてくれる?」
「分かった」とリビングに向かう背中を見送って、その間に大きな破片を拾いビニール袋に入れていく。幸い粉々にはなっていないけど、念には念を。雪に怪我させられないし。
「春、持ってきた」
「ありがと」
持ってきてもらった箒を少しずつ動かしながら小さめの破片をちりとりに入れる。そこに立ったままの雪に「リビングで待ってていいよ?」と言うと、雪はまた眉を下げて寂しげな顔を見せた。
「あ、雪、なんかタオル持ってきてくれる?もう古くなっちゃったやつ。雑巾はないもんね」
そう頼めば役割をもらえたことが嬉しいのか「うん」と大きく頷く雪が小さな子どもみたいでとっても可愛くて。
「よし、これでオッケー」
濡らしたタオルで優しく床を拭いていく。ここまでやれば大丈夫だろうと手を洗って振り向けば、そこにはまだ申し訳なさそうな顔をした雪がいた。
「ごめんな、春」
「もう、そんなに気にしなくていいのに」
「でも、せっかく春が買ってきてくれた、お揃いのコップやのに」
何をそんなに落ち込んでいるのかと思えばそういうことか。雪が割ってしまったのは同棲して1年の記念に俺がプレゼントしたペアグラス。しかもちょっと高いやつ。
「また買おうよ、お揃いの。今度は一緒に選びに行こう?」
「うん…」
雪は頷いてくれたけど、そのまま俯いてしまった。そんな雪の手を引いて、リビングまで連れて行く。雪とちゃんと話をしなきゃ。そう思った。
ずっと考えていた。
雪は本当にお母さんに会いたくないのか。本当は会いたいんじゃないのか。会いたいのに、会えない。なぜならお母さんが怒っているかもしれないから。
「雪。雪は、お母さんに会いたい?」
唇をきつく結んで、雪は口を噤む。長いまつ毛が揺れて、一瞬でも目を離せば消えてしまいそうなほどに頼りない。
「俺が確かめてくる」
「…え?」
ずっと考えていた。
もしも雪が本当はお母さんに会いたいと思っているのなら。会いたいのに、会えないのなら。俺が会わせてあげたい。
「雪のお母さんが、雪のことをどう思ってるか。それを確かめてくる」
*
*
「じゃあ行ってくるね」
俺は今日、雪のお母さんに会いに行く。
不安げな顔で玄関まで見送りに来てくれた雪の頬をそっとなで、静かにドアを閉めた。
地下の駐車場に降りたところで“今から出るよ”と蒼佑くんにメッセージを送った。笹原さんの家までは蒼佑くんを乗せて俺の車で行くことになっている。
蒼佑くんに「雪のお母さんに会いたい」と伝えたとき、蒼佑くんは驚き戸惑った様子を見せたけどすぐに日程を調整してくれた。今日は笹原さんも仕事が休みで家にいる。笹原さんがいるというだけでずいぶんとホッとしている自分がいた。
「悪ぃな、迎え来てもらって」
「ううん。俺もひとりで行くのは心細かったから」
蒼佑くんを助手席に乗せ、もう一度アクセルを踏む。
「急にごめんね。こんなこと頼んで」
「いや、いいんやけど、」と、蒼佑くんはなぜか気まずそうに視線を窓の外に向けた。
「何?なんかあったの?」
「いや、何もないけど。…結に、言ってないねんな」
「え?今日行くこと?」
「いや、今日行くとは伝えてる。で、雪の恋人が会いたいって言ってるってのも伝えてる」
「うん」
「…でも、それがお前やって、男ってことは伝えてない」
目前に迫る信号が黄色に変わった。ブレーキを踏みながらゆっくりと車を止める。
「…結さん、びっくりするよね?」
「するやろな」
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