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それからいつも通りの日々が続いた。変わったことと言えば猫がベランダに来なくなったことだ。しかし、これにはちゃんとした理由がある。猫避けのためのスプレーを叔父が散布したのだ、自分の部屋だけでなく朱理達の部屋のベランダまで。
紫織はネコちゃんが来なくなったと御冠だったが、朱理はホッとしていた。あの夜のことは夢だと思うことにしたのだが、まだ少し猫が恐い。
あの夜から一ヶ月ほど経ったある日、叔父が朱理の部屋に来て保護犬の里親になったと言った。
「朱理と紫織をビックリさせたかったら内緒にしてた」
「おじさん、わたしもワンちゃんの世話をしていい?」
紫織も「アタシもッ、アタシも!」と言いながら手を挙げて飛び跳ねた。
「もちろんだ。と言うか、それが里親になる条件なんだよ」
「どういうこと?」
一人暮らしの叔父だけでは、世話がちゃんとできないため里親になれない。そこで姉である朱理の母を説得して協力してもらえることとなったため、晴れて里親の申請をしたのだ。
「お母さんが世話をするの?」
叔父は思わず苦笑した。
「手伝ってはくれるだろうけど、ほとんどは叔父ちゃんと朱理と紫織ですることになるな」
それは聞いていない。
「嫌か?」
「ううん、嬉しい!」
紫織も「うれしい!」とはしゃいでいるが、どうせコイツはちゃんとやらないだろう。
「ワンちゃん、はやくみたい!」
紫織が叔父の袖を掴んでせがむ。
「もう下に来てるよ」
紫織は待ちきれず部屋を飛び出す。朱理も何だか焦ってしまい、妹の後を追いかけた。下の階の叔父の部屋に行くと、ケージの中に黒柴の子犬がいた。
「わーッ、カワイイ!」
紫織はケージから子犬を抱き上げた。
「優しくしなくちゃダメだよ!」
「わかってるよぉ、ねー」
子犬に微笑みかける、彼はペロペロと紫織の頬を舐めた。朱理も我慢しきれず、紫織に抱かれている子犬の頭を撫でる。
「そうだ、この子の名前、決まってるの?」
「ああ、梵天丸だ」
「ぼ……」
朱理は叔父のセンスの悪さに絶句した。もう少し可愛い名前を考えられなかったのだろうか。
「梵天丸だ」
朱理の表情から何かを読み取ったのだろう、叔父はもう一度子犬の名前を言った。
「ボンちゃんかぁ」
紫織はすんなり受け入れている。
「お前たちに決めさせるとケンカになるだろ?」
確かに自分と妹が名前を考えると喧嘩になる可能性が高い。
まぁ、仕方ないか……
ボンちゃん、ボンちゃんと連呼している妹の声を聞いていると、それほど悪くないような気がしてきた。
「これで猫に拐かされる心配も減る」
叔父がボソリと呟く。
「え?」
「あ……梵天丸がいれば、これから猫避けのスプレーをしなくても、フン被害に悩まなくて済むなって」
さっきとは違う事を言っている気がする。
「ねぇ、おじさん。この前、変な夢をみて……」
「変な夢?」
「うん。わたし、シロネコに連れられてネコしかいない町へ行くの……」
叔父の表情を覗き込むように見上げると、真剣に聴いている。叔父は朱理がどんなたわいもない話をしても、いつだってちゃんと聴いてくれるのだ。
「それで?」
叔父が先を促した。
「そこでネコたちに襲われて、誰かに助けてもらって逃げるんだ……」
朱理は右手の甲に視線を落とした。そこにあった引っ掻き傷の跡は、もう消えている。
「恐い夢だったんだね」
叔父が朱理の頭を撫でる。
「だけど、もう恐い猫は来ないはずだよ。来ても、梵天丸が守ってくれる」
紫織に揉みくちゃにされていた梵天丸が、朱理の方を向いて「ガウ」と鳴いた。
「ありがとう。でもボンちゃんは、まだ赤ちゃんだから」
今度は自分は赤ん坊ではないと抗議するように「ガウ!」と鳴く。
「わかったよ。ボンちゃん、わたしのことを守ってね」
手を延ばすと紫織がやっと梵天丸を解放し、彼は朱理の腕の中に来た。そして朱理の右手に自分の両前足を絡めると、身体を捻って彼女の手の甲を舐める。
それは恰も、朱理の心に残る恐怖の傷跡を癒やそうとしているようだった。朱理は梵天丸がこれから自分を守ってくれると信じることにした。
-終-
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