第23話 天雲の「ミールミィ」

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梅が咲き始める時期とはいえ、まだまだ冬の気配が色濃く残っている。光の届かない場所を歩いていると、凍てつくような痛みが頬に走る。細い針で何度も同じところをつつかれているような、些細な、だけどいやな痛みだ。教授と大原に行ってから、ずっとそれを感じている。 「早くあったかくならないかなぁ」 三条大橋を渡りながら、みっちゃんが言った。 「来月末にお母さんがこっち来るんだけどさ、おすすめの場所ない? 桜見にいきたいんだって」 「桜かぁ。王道がいいなら、平安神宮とか随心院とか。あとは、ちょっと遠いけど原谷苑もよかったよ。いろんな花が咲いていてきれいだった」 「さすが、詳しいねぇ」 鴨川にちらりと目をやった。立ち並ぶ木々はまだ蕾をつける様子はなく、土と同じ色をしている。今はまださみしい風景かもしれない。でも、知っている。あと一ヶ月もすれば、川の両端が桃色で埋め尽くされると。今のわたしは、知っている。 着いたよ。みっちゃんの言葉で、わたしは足をとめた。 「ここのはちみつ、おいしいんだ」 見上げると、緑色の看板に「miel mie(ミールミィ)」と書かれていた。今まで前を通ったことはあったが、中に入ったことはない。 店内には、棚いっぱいにはちみつが置かれていた。あざみ、みかん、マヌカ、りんご、はぜなど、数え切れないほど種類が多い。 「お昼ご飯食べた? ちょっとおなかすいちゃった」 店の奥にはカフェが併設されていた。そういえば、朝にヨーグルトを食べたきりだ。忘れていた空腹を思い出す。 わたしたちは、「ミールミィの贅沢ハニートースト」を注文した。厚く切られたトーストの上に、ソフトクリームと巣蜜が乗っている。よく見ると、アーモンドにはみつばちの顔が描かれていた。テーブルの上には8種類のはちみつがあり、トーストについてくる5種類のはちみつと合わせると、13種類も食べ比べができてしまう。 少しずつ違う種類のはちみつをかけながら、トーストを口に運んだ。 「すごい、どれも全然味が違う」 「でしょ。トーストもおいしいから、よく食べにくるんだ」 「みっちゃんはいろんなお店知ってるね」 「もう3年も住んでるからね」 詳しくなったねぇ、あたしも琴子も。みっちゃんがしみじみと言う。 3年。わたしが京都に越してきて、もう3年が経とうとしている。地図なしでは行けなかった場所に行けるようになった。どのバスに乗ればいいか分かるようになった。お気に入りの店ができた。京都が、特別な場所ではなくなった。 それはきっと、悪いことではないのだろう。写真がどんどん色褪せるように、咲いた花が散っていくように、時に重みが生まれた証拠だ。3年前のわたし。親元を離れ、ひとり暮らしを始めたばかりのわたし。洗濯機の使い方も分からず、住民票の取り方も知らず、銀行の窓口に行くだけで緊張していた、ばかでかわいいわたし。あの頃に比べたら、できることも知識も増えた。「何にも知らないね」と教授に言われるたび、わたしは悔しくて仕方なかった。ばかにされている、と思った。それなのに、どうしてだろう。蓄積された時間が、今は重たくて息苦しい。 「高校生の時ね、東京に飽き飽きしてたんだ」 はちみつをトーストにかけながら、みっちゃんが言った。 「生まれも育ちもずっと東京でさ。うらやましがる人もいるけど、電車はいつも満員だし、カフェ入るのに何分も並ぶし。なんか、いやになっちゃったんだよね」 「だから京都に来たの?」 「うん、そう。やっぱり大学も多いから、同級生はほとんど東京で進学したけど。あたしはもっと遠くに行きたくて」 わたしも、そうだ。生まれ育った土地に不満があるわけじゃない。新幹線だってとまるし、遊ぶ場所だってたくさんある。同級生の大半は地元の大学に進学した。だって、外に出る必要がないから。不要なお金をかけずに大学に通うことができるなら、それが一番の親孝行だから。 「京都ってさ、おもしろいよね。街並みがおしゃれだし、教科書に載ってるような場所にも行けちゃうしさ。まあ、観光客は多いし、交通の便はいいとは言えないし、夏は暑いし冬は寒いけど。ここにしかない魅力がたくさんあるなって」 分かる。分かるよ。京都って、歩いているだけで楽しいもん。 「でも同時に、東京のよさにも気づいたんだよね。大きなイベントはやっぱり東京で開催されるじゃん? 京都にいると簡単には参加できないし、参加できたとしても大阪まで行かなきゃいけなかったりさ」 それでさ、とみっちゃんは続けた。 「あたしたち、まだ全然知らないことばっかりなんだよね。フランスに行って感動しちゃった。ああ、世界にはこんな素敵な場所があったんだって。テレビや雑誌を見ただけで、知った気になってた。でも、実際に目で見たら全然違った。世界って広くて、すごいんだよね」 そう語るみっちゃんの瞳は、星を閉じ込めたようにきらきらしていた。見知らぬ土地に行って、知らないものを見た感動が、瞳の中にぎゅっと詰まっている。そう、京都を巡る時のわたしのように。 教授に知らないことを教えてもらうたび、わたしの胸は震えた。初めての場所に行き、知らないことを知るそのたびに、わたしの中の何かが生まれ変わるような気がした。教科書で得た知識が、凝り固まった価値観が、アップデートされていく。文字に命が吹き込まれ、三次元のものとして形になり、細部までぐんと見えるようになる。そうなって初めて、わたしは写真を撮るのだ。教科書や参考書で見る写真ではない。わたしが、わたしのために撮った写真は、確かに命を持っていた。 「あたし、琴子の写真がすき」 みっちゃんが言った。 「京都の写真もすきだけど、北海道の雪景色とか、沖縄の海とか、イギリスの街並みとかさ。そういう写真も見てみたいなぁ、って思ったりもする。間崎教授が言いたいのって、きっとそういうことじゃないかな」 わたしは何も答えなかった。答えたく、なかった。 分かっている。教授がどんな思いであんな風に言ったのか。分かっていた、そんなこと。それでもわたしは、まだここにいたいと願ってしまう。変化なんていらないから、この日常がずっと続いてほしいと思う。
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