第23話 天雲の「ミールミィ」

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昼間は春の陽気を感じても、日が沈むとぐんと気温が下がる。普段はシャワーで済ませることが多いが、その日は久しぶりに湯船に浸かった。40℃のお湯に肩まで沈み込む、この瞬間が少し苦手だ。熱さに慣れていないから、というだけじゃない。はるか昔の記憶が、なぜか頭をよぎるのだ。 まだ小学校に上がる前だったか、両親が仕事で夜遅くまで帰ってこない日、祖母と一緒に風呂に入った。幼いわたしは、母がいないと泣いたのだ。どうしていないの。どうしてママは帰ってこないの。そうやって、声を枯らして泣いたのだ。 なぜこの日の記憶が鮮明によみがえるのかは分からない。トラウマになっているわけでも、恨めしく思っているわけでもない。だけどきっと、10年後も20年後も、この記憶は失わないだろう。なぜかそう、確信している。 風呂から出て髪を乾かし、軽くストレッチをした。ずいぶん前に買ったお香を焚くと、ほのかに桜の香りがした。 みっちゃんからもらったカリソンを、皿の上に並べた。いつもだったら、わざわざ皿を出したりしない。だけど今日は、わたし自身をもてなそうと決めた。わたしを、幸せにすると決めた。 セイロンティーにはちみつを垂らし、くるくるとスプーンでかき混ぜた。一口飲むと、りんごの風味が口いっぱいに広がった。体の中心があたたかくなる。春の、やわらかい日差しを想像した。 相変わらず、教授からの連絡はない。わたしからも連絡はできない。文字を打って、途中でとまって、すべて消す。それを何度も繰り返している。今までどんな会話をしていたのか、どんな風に接していたのか。うまく思い出すことができない。 じんわりと涙が滲んだ。この涙が何を意味するのか、今のわたしには理解できない。この感情の名前を、わたしは知らない。世界は絶望するくらい広く、わたしという人間は、絶望するくらいちっぽけだ。 春になったら、教授とうまく話せるだろうか。みつばちが蜜を運ぶように、わたしにも春が来るだろうか。今はまだ、この甘さが少し痛い。
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