第2話 花散らす「随心院」

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原谷苑は北山杉などの木材を取り扱う村岩農園所有の桜苑だ。花を愛した村岩二代目が、桜や紅葉など、数十種類の樹木を植樹したことに始まるらしい。当初は身内だけで花見を楽しんでいたそうだが、人づてに評判が広がり、現在では桜や梅、紅葉の時期だけ一般公開するようになったという。広大な苑内には、ソメイヨシノやしだれ桜、山桜など、約20種400本の桜が植えられている、と教授が教えてくれた。 「桜だけでもそんなに種類があるんですね。ソメイヨシノとしだれ桜くらいしか知りませんでした」 「まぁ、普通の人はそんなものだろう」 ばかにされるかと思ったが、教授はめずらしく素直に同意した。先ほどまで伸ばしていた手をポケットにしまい、花々の間をゆっくりと進んでいく。道が迷路のようになっているので、花に埋もれて教授の姿を見失ってしまいそうだ。桜の淡い桃色と、雪柳の白さ、山吹の黄色。複数の色が混じり合って、まるで夢の中にいるようだ。 空を見上げた途端、強い風が吹いて枝がしなった。花弁が雪のように舞い散って視界の邪魔をする。 「桜吹雪ってきれいですけど、桜が散ってしまうのはいやです」 「むちゃくちゃなことを言っているな」 「だって」 わたしはシャッターを切る手をとめ、むくれた。ついこの間見た随心院の桜だって、きっともう散っているだろう。鴨川の桜もすでに青葉が混じり、新緑へと衣替えを始めている。 桜吹雪は、美しい。だけどその一方で花の儚さを思い知り、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。春の嵐が、桜を壊していくような気がする。 「花散らす風の宿りは誰か知る、だな」 知っていますか、と、教授はわざとらしく聞いてきた。 「残念ながら知りません」 「だと思った」 花散らす風の宿りは誰か知る我に教へよ行きて恨みむ。 訳せますか、と言われたので、訳せます、と答えた。訳せます。訳せますよ、それくらい。2年前なら、すぐに「分からない」と答えていた。1年前なら、少し考えて根を上げていた。はたちを迎えた今は、少しでも対等に話せるようになりたい、なんて、背伸びをしてみることにした。 「花を散らす、風の、やどり」 復唱し、単語一つ一つを噛み締める。風のやどり。やどりって何だ。宿木、と同じような意味だろうか。やどり、ともう一度つぶやく。 「桜を散らす、風の居場所を誰か知りませんか」 「そう、その調子」と、教授がうなずく。わたしは機嫌をよくして続けた。 「わたしに教えてください、行って恨みましょう」 正解、と教授が言う。受験時代に培った読解力は、まだ衰えていなかったようだ。 「恨みます。わたしは今、風を恨んでいます。吹かないでほしいです」 「そんなに叫んでも、風には聞こえないよ」 「だって、こんなにきれいなのに。散ってしまうなんて、もったいないじゃないですか」 「そこは、『散ればこそ』でしょう」 「散ればこそいとど桜はめでたけれ、ですか」 「そうだよ」 去年レポートで取り扱ったので、かろうじてその和歌は覚えていた。散ってしまうからこそ、桜は一層すばらしいのだ。このつらい世の中で、一体何がいつまでも変わらずにいられようか。 「人は永遠に続くものよりも、刹那的なものに惹かれてしまう生き物なんだよ」 教授は突然足をとめ、その場にしゃがみ込んだ。地面に落ちた桜の花弁を手に取り、太陽の光に透かす。 「花も、小説も、青春も。終わってしまうからこそ魅力があるんだよ」 じゃあ、教授。 楽しい時間にも、美しさにも、いつか終わりがあるのでしょうか。 そう尋ねようとして、やめた。分かりきったことだった。
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