00. 序幕 -幸賀と凶報-

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00. 序幕 -幸賀と凶報-

 カランカランと時代を感じさせるベルが鳴った。 「ごちそーさん」と、満足げな常連客を店の戸口で見送り、幸賀一織(こうがいおり)はほぅとため息をついた。  外はいい天気だった。雲もほとんどない青空を見上げ、一織は目を(すが)める。    こんなカラッとした天気だというのに、あと数時間もするとにわか雨が降るのだと、自分よりずっと若いお天気お姉さんが言っていたか。  夏場の天気は変わりやすいものね。そんなことをぼんやり考えつつ、店頭のプレートを『準備中』に裏返した一織は、幸賀飯店の店内に立ち戻った。  店内は少し前の忙しさが嘘のようにガランとしている。  いくつか食器の残った卓上を手早く片づけ、厨房で洗い物をする。加えて食材の在庫確認など一通り作業が終わった頃には、夕方からの開店まで一時間を切っていた。 「ああ、もうこんな時間なのね」  一人苦笑して伸びをしつつ、カウンターの定位置に座る。  厨房から持ち出したリモコンのボタンを押すと、壁に固定された二十何インチかの液晶テレビの電源が入った。ささやかな休憩時間を享受するように、一織は頬杖をついた。  お昼の情報バラエティ番組なんかを流しながら、ぼんやりと思考に耽っていると、トンと、目の前に料理が置かれた。  ふわりと、あんかけチャーハンの食欲を唆る香りが鼻腔(びくう)をくすぐる。  伸びた腕を追って隣を見ると、お盆を持った幸賀伊代(こうがいよ)の姿があった。柔和な顔に刻まれた皺が、否応なく彼女の歳の頃を意識させる。一織の母親である伊代は、今年で齢七十五となる。 「疲れとるね、一織。大丈夫かい?」  そんな母が気遣う表情を見せ、トントンとスープやナムル等の副菜をカウンターに置いた。またたく間に目の前に中華ランチが展開された。 「大丈夫よ。母さんもお疲れさま」  同じく隣に料理を置いた伊代が椅子に腰掛ける。  二人で手を合わせて『いただきます』をする。  これが幸賀家の日常、遅い昼食の一時(ひととき)であった。  箸をつけようとした矢先、その背後をドタドタと駆ける足音がした。チラリと振り返る。 「あら、悠斗くん。まかない食べていかないの?」  一織が声をかけると、シフト上がりのバイト君がクルリと振り返った。大学生の青年がわずかに頭を下げ、申し訳なさそうに笑った。 「すんません。このあと用事があるんで」 「お? さてはこれか?」  ニヤリと笑い、一織はピンと小指を立てた。 「い、一織さん。あからさますぎるっすよ」  たじろぎを見せた彼だが、「お疲れ様でーす!」と足早に店から出ていった。 「あらまぁ、慌ただしいわねぇ」  伊代がのんびりした口調で言う。 「青春真っ盛り。羨ましいわ」  そう言って、一織はチャーハンを頬張った。 「いいじゃないの。若いうちは楽しんだモンが勝ちさね。うちに来てくれるだけありがたいじゃない」 「んむ、そうね。ほんとそれ」  一織は嚥下(えんか)して二回ほど頷いた。  今やスマホで気軽にバイトが探せる時代だ。  口には出さないが、こんな年季が入って華やかさがない飯店より目移りするバイト先はごまんとあるだろう。  スマホといえばと、一織は無意識に思案して軽く息をついた。  最近のスマホ便利機能には正直ついていけない。  バイトだけではない。今やスマホのカメラに映すだけでAIが人の感情を読み取ったり、写真を分析して未来の自分を姿を提示してくれたりなど、便利で瞠目に値するサービスが次々と生まれている。  数十年前では考えもしなかったアイデアが社会な浸透し、当たり前に成り代わりつつある。  このあたりの知識はどちらかというと、バイトの子たちから教えてもらうことが多い。スポンジのような若人たちの吸収力は羨ましくもあり、見習わなければと強く思うところでもあった。  しかし実際には、日々の忙しさと疲労が、殊勝な思いをそっちのけにしてしまう。  幸賀飯店は元来より家族経営の飲食店だ。数年前に一織の父親が亡くなって以来、女手でだけで幸賀飯店を切り盛りし、奔走してきた。  それでも、と一織は隣の母の顔を盗み見る。  伊代はもういい歳であり、時折厨房で立ち仕事をしている中で辛そうに顔を歪めている時がある。  どこか痛むのだろうかと、声をかけても母はやんわり笑うばかりで、決して辛さを一織に見せようとしないのだ。  彼女だっていつまでも働けるわけではない。  むしろ一織としては、そろそろ引退してゆっくりしてほしいという思いもある。  そんな経緯もあってここ数年バイトの子も増やしてきたのだが、採用もそううまくいかないのが現実だった。 「井鶴(いづる)くんみたいな子が増えたらいいのに」  ポツリと言うと、伊代から「一織」と(たしな)められるような口調で言われた。 「若人(わこうど)の青春を必要以上に奪ってはダメさね」 「分かってる。分かってるわ」  一織は自分に言い聞かせるように言う。  ほとんど無意識に名前が挙がった彼、井鶴蒼伊(いづるあおい)は高校生でバイトの中でも最年少になる。  立派なものだと一織は思う。他の子と比べるわけではないが、責任感が強く、要領もいい。  バタつくことが多いお店だが、そんな中でも彼は的確にホールや厨房を巡り、ソツなくお店を回してくれる。  正直かなり助かっているし、頼りにもしている。  だが、何というのだろう。  時折ニヒルに冗談を交わす彼は、何か捉えどころのないものに必死にしがみついている、そんな気がしてならないのだ。  そんな彼だが、今は旅行中だと聞いている。  このあいだお昼を食べに来てくれた友達と一緒に行ったとのことで、珍しくここ数日シフトに入っていない。たしか三日ほどだったか。 「遊ぶ時には遊ぶ。リフレッシュしてほしいわね」  心の底からそう思って一織は言った。  ふと気づけば、夕方前のニュースが流れていた。  今日の日付と時刻が告げられる。  7月28日の16時30分ちょうどのことだった。  神妙な顔つきをした報道記者が何やら報じているようで、その背景に見えるのは森だ。どこか田舎にいる映像が映し出されている。  湯呑みを手の平で包むようにして緑茶をすすりながら、一織は首を傾げた。記者の報じている言葉がカサリと記憶の隅に引っ掛かった。建物の名前だ。  特徴的な名前だったのもあり、耳に残っている。  つい最近訊いた、とよく似た響き。 「……あれ? この旅館って確か」  井鶴くんの旅行先じゃなかったかしら? と思った矢先。  ──カランカラン。  不意に聞き慣れたベルが鳴った。  伊代が顔を上げ、店の入口を見やる。  先ほど出ていったバイトの子が忘れ物して戻ってきたのかと、一織は思ったのだが。 「あれま、お客様」  伊代が囁き、わずかに目を丸くした。  伊代の言葉に、一織は「あぁ」と納得する。  時折、昼過ぎの閉店時間に気づかず入店する客がいる。きっとその類なのだろう。  先ほどプレートを準備中に切り替えたばかりだ。表の見えるところに堂々とあるにも関わらず、見ようとしないものは目に入らないらしい。  そんなお粗末な考察が胸を滑る。  伊代が席を立った。腰を丸めたまま、ゆっくりと入口に向かう。  それでも一織は動かなかった。母親をそのまま見送り、あまつさえ視線をテレビに戻した。  動悸がする。妙な心音に引き戻されたのだ。  いつもなら些細な対応は一織が率先する。だが、今日ばかり、今この瞬間、そんな考えはよぎらなかった。報道ニュースが気になって仕方がない。  どうしてだか、自分でもよく分からない。 「今は閉店時間でして。すみませんねぇ……」  伊代がそう言ったのを、一織は背中に聞いた。  そして一織は。目を見開き、息を飲む。  ──寸刻後、傾いた湯呑みが床に落ちた。  パリーンと粉々に砕け散る音が響き渡る。  鋭利な余韻だけを残して、店内はしばらくシンと静まり返るのだった。
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