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運転手にお礼を言い下車する。
バスを見送り、十分ほど歩いたところで
「おー!」と六夏が声をあげた。
「ねぇ見て! なんかすっごい橋かかってる」
指さす先を見やり、蒼伊も同じ感想を抱いた。
あれが運転手の言っていた橋なのだろう。年季の入った味のある木製の吊り橋だった。
長さは二十メートルほどだろうか。もっと近づいてみると、その全容が明らかになった。
「すげぇなこれ……」
桐助が橋を見下ろして言った。
蒼伊も隣から覗き見る。
その下は山を両断するような深い谷だった。
こちらもあちらも切り立った崖になっている。
吊り橋はその両端に何とも頼りなく掛かっているように見えるため、桐助が言葉を失ったのも無理はないだろう。
谷底の川にはあちこちに黒々とした岩が顔を覗かせており、絶えずザザンとした白い泡のような飛沫が弾けていた。
「ふぅん、海が近いんだ」とトールは呟いた。
「どおりで潮の匂いがすると思った」
海、という単語にドキリとした。
何を言い出すのかと、蒼伊はトールに鋭い視線を向けた。
「へ? するか?」
桐助がスンスンと鼻を鳴らした。
「あれ、しない? じゃあぼくは少しばかり鼻が効くのかも」おどけるようにして言うトールに、
「サモンだったら分かるのかなぁ」桐助はサモエドの愛犬の名前を出して首を傾げた。
「かもね」とトールはおざなりに返事をした。
それ以上話を膨らませるつもりはないらしい。
蒼伊は小さく息をついた。
「ほら、置いてくよー!」
気づけば六夏が吊り橋の上にいた。ブンブンと頭の上で大きく手を振っている。そこそこ風も吹いているため、吊り橋がわずかに揺れている。
さすがに落ちることはないのだろうが、相変わらず物怖じしないその性格には尊敬の念すら浮かぶ。
一同はおっかなびっくり──主に男性陣の反応である──吊り橋を渡った。
そこから山道を五分ほど歩くと目的地である旅館が見えてきた。
蒼伊は思わず「ほぅ」と唸った。
それは、入母屋屋根を被った和風外観をした建物だった。二階建ての旅館はそれほど大きくはないものの、全体的にセンスのある立派な佇まいである。
旅館周りのしだれ柳がいい具合に調和しており、背景の樹々がまた旅館の存在を引き立てている。
山奥の秘された旅館と言っても過言ではない、そんな瀟洒な雰囲気を醸し出していた。
「これほんとに、おれたちが泊まる旅館だよな?」
ピタリと桐助が足を止めた。
「看板まで見えてるんだから間違いないだろ」
同じく足を止めて蒼伊はそう返した。
ドンと正面を向いた旅館の入り口の上部には、『山瑚荘』という立派な看板が掲げられている。
とはいえ、看板がなければ蒼伊自身も同じ気持ちを抱いたことだろう。
「何なに? 桐助ビビってる?」
振り返った六夏の面白そうな顔が覗く。
「馬鹿、そんなんじゃねぇし」
桐助は早口で言うと、そのまま六夏を追い抜いて旅館に向かった。
六夏もトールも、何とも生暖かい笑みを浮かべて後に続いた。
旅館の道標のような敷石を踏みつつ旅館の入り口に向かう。木目調の自動ドアが開かれると、石畳風の玄関があった。
靴を脱ぎスリッパに履き替えて進むと、そこにはエントランスが広がっていた。
旅館の規模からしてやけに広く感じられる。
藤紫の落ち着いた色合いの絨毯が一面に敷かれており、温かみのある橙色の明かりがエントランス、ひいては旅館全体を優しく照らしていた。
旅館独特の匂いがする。湿った樹とお香のようなかすかな匂い。不思議なもので、それだけで異世界に迷い込んだ錯覚に陥りそうになる。
エントランスには年季の入っていそうな骨董品と呼んでも差しつかえない品が点在していた。腰ほどの高さの台座に飾っているものもある。価値などまるで分からないが、壊したらと考えると肝が冷えるくらいには高価そうに見える。
かと思えば奥の中央には大きめのアクアリウムがあったりと、なかなかどうして主張が激しい。
一言で表現するならそう──味わいのある旅館のエントランスだ。陳腐かもしれないが、その表現がしっくりくる。
フロントは入ってすぐ右手にあった。中には二十代前半くらいに見える若い女性スタッフが控えていた。
桜色の生地に白い花びらがプリントされた着物に身を包んだ小柄な女性──その視線がふと、こちらを向いた。
「あ、すみません。こちらで予約した兎村です」
先ほどから隣でゴソゴソとトートバックを漁っていた六夏は早速そう言うと、フロントに無料宿泊のチケットを提示した。
それを見るなり女性は目を瞬いた。
「えー……」と逡巡するような声を出したかと思うと、おずおずとした上目遣いを見せてきた。
「少々お待ちいただけますか?」
歯切れの悪い言葉を残し、女性はさっと奥に引っ込んだ。フロントはおろか、エントランスにも蒼伊たち以外、誰もいなくなってしまった。
いきなり雲行きが怪しくなり、一同は顔を見合わせた。
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