01. 山瑚荘につき

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「あはは。まさかこれ、偽物だったりしてー」  軽く言った六夏だが、その眉はわずかに下がっていた。気まずげに頬をかいている。 「ここまで来て泊まれなかったら笑えるな」  冗談めかして蒼伊が言うと、 「ちょっと井鶴くん。空気読まなきゃダメだよ?」  まさかのトールから横槍が入った。  返す言葉を失い、また妙な空気になった。  ……空気を一番読めないのは誰だよ。  蒼伊は顔をしかめた。  声に出して反論したいのだが、六夏と桐助の前であまり醜態を晒したくない。  そんな感じでしばらく待っていると、奥から別の人物──スーツを着た初老の男性が迎えてくれた。  歳の頃は六十くらいだろうか。白髪の混じった髪はオールバック、そして白い髭を(たくわ)えている。  いかにもザ・支配人という風貌をした男性だが、受ける印象に嫌味はなく、むしろ穏やかなご年配といった印象を覚える。 「兎村様ご一行ですね。お待ちしておりました」  男性は物腰柔らかい感じで丁寧にお辞儀をした。  その胸にはネームプレートが煌めいていた。  山瑚荘のロゴの下には『柴石瑛治(しばいしえいじ)』と名前が書かれており、その名前の前には『支配人』と添えられていた。  自分の見立ても悪くないなと蒼伊は思った。 「先ほどは仲居が失礼をいたしました」  ふっと、その顔に申し訳なそうな色が浮かぶ。 「提示いただいたのは企画用の宿泊券なのですが、共有が出来ておらずで。不安にさせてしまい、申し訳ございません」  柴石はそう言って再び頭を下げた。 「いえ、そんな全然お構いなく」  身振りを添えて、ソツなく六夏が言った。 「そうそう、そんな腰を低くしなくても。全然気にしてなんかいないさ」  六夏の(稀に見る)大人な対応だなと思っていたら、トールがいとも簡単に台無しにしてしまった。  トールなりのフォローのつもりだろうが、何とも横柄な物言いに、思わず蒼伊の頬が引きつった。 「はは、恐れ入ります」  それは柴石も同じだったようで、営業スマイルにどこか苦いものが混じっている気がした。  気を取り直すように柴石はおもむろに宿泊帳を開くと、視線を落としたまま「しかし、ずいぶん早く到着されましたね」と言った。 「え?」と六夏が首を傾げる。 「本来チェックインは15時からなのですが……」  柴石は控えめにそう言い、チラリとどこかに視線を向けた。 「あれ、そうなんですか? っていま何時?」  六夏がこちらを振り返った。荷物が多い彼女は、自分で確認するのを億劫に思ったらしい。  やれやれと、蒼伊はスマホを取り出そうとした。その矢先、ポーンと古風な音が耳朶(じだ)に響いた。  やけに余韻が残る音色で、自然と視線が集まる。  音がした方向にはトールがいた。 「いま十三時ちょうど。分かりやすいね」  そのトールが親指で背後を指し示した。  そこには、年季の入った大きな古時計が鎮座していた。その短針はきっかり一の位置を指していた。 「……知ってた?」と六夏の視線が古時計から再びこちらに戻ってくる。  チェックインが昼の三時からだと知っていたかと訊いているのだろう。 「さぁ。知るわけないだろ」  蒼伊はそう言って桐助に視線を移した。  その隣で桐助も首を振っていた。 「ぼくも知らなーい」  トールはわざとらしく(うそぶ)いて、腕を頭の後ろに組んだ。 「あれー、おかしいなぁ」と六夏が間延びした口調で言った。「誰かに十三時だって聞いた気がするんだけど」  ふと、その視線がこちらを見据えてきた。 「ねぇ? 蒼伊ちゃん?」  ドキリとした。  六夏のそれは訊いたという感じではなく、むしろ同意を求める口調だった。 「……なんで俺に振る?」 「なんとなーく」  緩慢に言った六夏の目がわずかに細められる。  蒼伊は「なんだよそれ」と苦笑して六夏から視線を逸らした。いたたまれなくなったのだ。  ──
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