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彷徨い続けて力尽きたとき天空の鏡面が砕け氷雪の爆裂が生じた。極寒磔剣嶽がびしびし鳴動しながら山頂を崩し無数の巨大雪崩を起こした。村の被害は甚大だった――
そばには赤子を抱いた年若い女と,彼女に寄り添う男が意識を失っている。きっとこのまま私たちは延々と降り積もる銀の重しに,身動きの自由も体温も呼吸もじわじわ奪われつつ終わりを迎えるだろう……
誰かが来る。人間1人分の背丈ほど堆積した雪を手際よく掘削し,穴上から見おろしてくる。
不規則な動きで大気を切り裂く暴風雪にも一糸乱れぬ長髪がさらさらと靡いていた。青白い頰と感情の摑みどころのない切れ長の瞳が雪と光の反射を受けて時折強烈な輝きを発した――雪女だな。昔話に聞いた,人に凍える息をふきかけ秒殺してしまう妖怪だとか。
真紫の薄い唇が綻んだ。「人間が害虫にするみたく容赦なくやっちまうだべ――だが儂は雪女でねぇ。この御嶽に棲むユージンじゃ」素手で雪穴を掘り広げると,単の白衣だけを纏った細い身体を丸め,私と一緒に生き埋めになる男女へフウゥと入念に息をかけた。忽ち2人の顔面から血の気が失せ,やわらかな質感の皮膚はかたく乾涸びてしまった。
「――こ,殺したんですか!」
「悪人は駆除するだべよ」
「悪人って――この人たちが何をしたと言うんです?」
「女は明け暮れ悪口三昧,男はよその門前に芥や煙草の吸い殻を撒き散らすって為体よ」
「それくらいで殺されるなんて……」
「それくらい? はて,それくらいって如何ほどのもんだべか?――ちっせぇ悪さも重なりゃ,でっけぇ罪になっちまうだよ。塵も積もれば山となるって言うでねぇか」
赤子が雪中から這い出し,土色になった女の頰へ手をあてた。突然,焼けついたように泣きはじめる――
気づけば赤子に覆いかぶさっていた。
「そったらことすんでねぇ。生まれついての悪人は駆除しとかねば後々害を大きくしちまうだよ――その乳飲み子は不義の塊だべ」
背後から腕がのび,赤子の頸部を摑んだ。赤子は声を嗄らし,体全部を使って拒絶を示した。
「女は夫を捨ててまでその子を産んだだよ。おめぇの女房が間男との子供を産んだのと同じだべ」
私は妻に裏切られ,生きる気力を失った。それで会社を辞め,世を遁れ,死に場所を求めてここに辿りついたのだ。
「罪業と憎悪の肉塊は処分するがええだよ。汚物をはよう儂に渡せ――」
肩を揺さ振られた。刃を摑んだ瞬間みたいな感触が肩から走り落ち体温と精気を奪われる。がたがた震えながら赤子を抱きしめると,喉もとに食いつかれた。
「はようはよ,渡さんか,離れんか――」赤子の首を縊る手と,私の肩を揺する手とは別のそれらが四つも加わり,黒みを帯びてはれあがる腕と足とを鷲摑みして小さな体を今にも八つ裂きにしてしまいそうだ――
「ごめんね,君を助けられない。おじさんは弱い人間なんだ。殴られても蹴られてもへらへら笑って遣り過ごすしかない駄目男なのさ。だから唯一の理解者だった奥さんにも愛想を尽かされてしまったんだよ。死んだらあっちの世界でおじさんを煮るなり焼くなりしていいからね――ちょっとだけ痛いの我慢して」私は,赤子の足をへし折ろうとする腕に額をこすりつけた。「耐えられません。どうぞこの子より先に逝かせてください」
風雪が鋭い声を発した。
「それの事切れんのを見たくねぇだか? おめぇの女房の産み落とした肉塊の形代だべよ。形代を痛めつけりゃあ,気もすっとすんべ」
「この子は私です。自らの窮状をどうして望みましょう。私も不義の子です」
「……どったらこったべ?」赤子と私を拘束する六臂が白衣の諸肌を脱いだ胴体へと戻っていく。「不義の子ならば汚れてるはずでねぇか。だども汚れてねぇ……」
左右のつけ根からそれぞれ三つに分岐する腕が一頻り曲がりくねると,上段の一揃いの両手で頭をかかえたり,中段の一揃いの親指と人差指で両耳を摘んだり,下段の一揃いの両拳を腰に押しあてたりした。
「苦しまない方法でお願いします。見るに堪えませんので私は失礼します――」脱いだコートで赤子をくるんで雪面におろし,一礼するなり吹雪の湧きあがる底の見えない渓谷へと身投げした――
綿状の雪の充満する薄灰の闇をしばし貫いてから白銀の世界に引きあげられる。
「待て,待て――」
「とめないでください。どうせ命をとるんでしょう。でしたら,その子を殺める前に――そのくらいのお慈悲をどうか!」再び渓谷に飛びこもうとするが,六臂に絡みつかれ身動きできなくなってしまう。
「人間ならば貪欲に生き残ろうとするもんでねぇか! この甲斐性なしめが!――何でおめぇみたく意気地なしが儂の跡継ぎに選ばれたんだで?」
「はあぁ?……何と仰いました?」
「おめぇが儂のかわりに次のユージンになるのさね」
「私がですか――どうして私が――」
「知ったこっちゃねぇべよ。御嶽の神さまがお決めになったことだ」そう言って頂の崩壊した極寒磔剣嶽に視線を馳せた。「御嶽の動いたときにユージンは生まれかわる決まりだで。神さまがおめぇを呼ばれ,御嶽を動かしなさった――御託宣だでよ」
左右にのびる三つ叉の腕がそれぞれ一つに融合し,私は解放された。そろそろと赤子に近づき抱きあげれば愛らしい笑みを返してくる。
「ユージンは寂しいぞ。哀しいぞ。たった1人で御嶽の神域村を守り抜いてゆかねばならんだで――儂もようやく眠りにつけるべな」深い溜め息をつけば,吐息が氷結して輝きながら風雪に流れた。
「……あの,重責を果たされた感慨に浸っておられるところを申し訳ないですが,私には無理です」
「……」
「到底ユージンなどにはなれません」
「またそったら弱音を! 神さまのお決めになったことは絶対だべ! 逆らえば雪粒にかえられるだよ! 降っては落ちてとけ,降っては落ちてとける――百年過ぎても千年過ぎても億万年過ぎても虚しい繰り返しをやめられないだで!」
「虚しい繰り返しとは思いません……」
「……」
「私は誰からも疎まれてきました――でも雪ならば歓迎してくれる人もいるでしょう。やわらかな牡丹雪になって綺麗な娘さんの掌に舞いおりたいな。ははは……」
「鼻の下,のばしてんでねぇ!」
顔面をはたかれた。
「不義の子であるおめぇの汚れてねぇ訳が分かっただ。ひっでぇ腑甲斐なさが怨恨や報復なんぞの悪からおめぇを遠ざけただよ。虚仮にされても忍従しか知らねぇ態度は恰も修行者だで。善に善が積み重なってついには生来の穢れまで浄化しちまったんだ。腑甲斐なさも極めれば恐ろしいもんだべな――」優しい微笑に目を奪われた。「だどもな御託宣は御託宣だでよ」
腕から赤子が奪いとられていた。
「な,何を――返してください。お願いです」両手をあわせて跪いた。
「おめぇにはユージンになってもらうだ。儂が手本を見せてやったように悪人の駆除もしてもらう。うんだ,腑甲斐なさなんぞ打ち捨ててもらうだんべ!――」赤子を頭上高くもちあげ渓谷へ放り投げようとする――
「その子が死んだら私は雪になります!」
「生かしたらどうすっべぇ?」肩ごしに鼻先だけを後方へむけてくる。
「ユージンになります。その子のために――その子のためなら――悪人の誰かを殺すことだってできます」
「だども,この子は行くゆく殺人鬼になり果てるだで。悪の芽は摘んでおかねばなるまいよ……」
「必ず善人に育てあげます! そして立派に成人させたら,私は村へ戻りユージンになります!」
「腑甲斐なしに育てるがよかんべぇ」振りむきざまに広がった髪の末端から粉雪が散った。「約束を違えるでねぇよ――凍てつく晩はそばにおるだでぇ」
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雪はいよいよ本降りとなった。骨の髄までこたえる冷気がずしりずしりと層をなし何者をも逃さない氷壁を築いていくような夜だった。
部屋に火の気はない。既に灯油は使い切った。動ける状態のとき廃品回収して得た給料も息子の遊興費に消え,灯油を買い足す金もない。
それでも家のなかは外よりよほどあたたかく安全なのだ――だが息子は身支度を済ませ出ていこうとしている。
「こんな夜は父さんと家にいて……ねえ,善人くん,いい子だからさ……」
血溜まりに横顔を沈める私は上手に声を出せない。しかし怜悧な息子はしっかり聴解できている。
「父さんとは一緒にいない。善人はいい子じゃないから――これからもずぅとね」
焼け爛れた煙草が頸部に押しあてられる。出血のやまない傷口からジュッと蒸気の発するのに刺激されたのか,息子は何度も肘を突きおろす。そして今なお飽き足らず,無数の刺し傷のある胸や腹を蹴りあげているのだった……
突如,窓硝子が割れ,どっと風雪が押しいってきた。室内の空気が一瞬にして凍りつく。狂気につかれた息子の落としたライターが両眼に飛びこんだ。それを摑みとり自らの身体に火をつける。切り刻まれた皮膚から漏出する脂ののった肉が勢いよく炎上し,瞬く間に火達磨となった。
「善人くん,父さんのそばにおいで! 寒くて冷たい場所は駄目だよ!――」
「押っ魂消た腑甲斐なしだ……」
白衣を纏う長髪の麗人に抱かれていた。
燃えあがる炎は消失し,全身の傷や痣もすっかり治癒している。
「だどもな約束は約束だでよ」
「大人になれていないだけです。まだ子供のままなんです……」両手をすりあわせた。
「不惑を過ぎた子供だべか……」遣るせなさげな微笑を見たとき,旋毛状の風雪に巻きこまれた――
目をあければ急勾配の雪面をブリザードを受けながら山頂へむかい這っていた。
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