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三日後、僕はライムをゲージに入れ餌と水を与えて出勤した。
なぜ三日後なのか。
言うまでもない。
僕はライムから離れられなかった。
夢中で世話を焼き、戯れ、この世の天国を味わっていた。
ただもう一日中、ライムを身体に止まらせて幸せな気分に酔いしれた。
ライムの羽根に頬ずりしたくて、長年伸ばしていた髭までツルツルに剃った。
髭を剃ったばかりのデリケートな肌にライムのクチバシや羽根が触れる感触はゾクゾクするほどの快感だった。
僕は、僕の世界に迷い込んで来た小さな恋人と幸せな時間を旅していた。
まるで今まで『飛べない鳥』だった僕自身が大空に羽ばたいているような感動。
僕の身体に閉じ込められていた魂が、無限な空に解放されたような身軽さを感じた。
三日後の朝ですら、僕はなかなかライムと離れられず、心配で心配でならなかった。
何が心配かと言えば、一つは、留守中のライムが無事で居られるかということ。
もう一つは、僕はこんなにライムを愛してしまって、この先、大丈夫なのかということ。
三日後、頑張って、僕は出勤した。
事務員は中年のおばちゃんと25歳の兄ちゃんだ。館長は、この美術館を開いた金持ち商人の子孫である。館長は非常勤だが、だいたい木曜日の午後には顔を出す。
中年のおばちゃんは一応、事務長という肩書きで、兄ちゃんは経理部長という肩書きである。
僕には肩書きはなく、単なる学芸員であるが、せいぜい気持ちだけでも元気づけようというつもりか、みんなは僕を先生と呼ぶ。
「うわっ!先生、大丈夫ですか?雪降りましたからね。風邪ひいたんですか?何か酷い鼻風邪でもひいて髭剃ってしまったんですか?」
朝、出勤すると兄ちゃん部長に声掛けられる。
おばちゃん事務長はニヤニヤして言った。
「いや、その顔は・・ズル休みだろう?彼女でもできたんだろ。髭剃って、なんだか若返ったじゃないか。まあ、たまにはいいさ。で、どんな子だい? 先生の心惑わす女って、興味あるなぁ。ぃひひひ・・」
おばちゃん、というものは、なかなかどうして勘が鋭い。
41才にもなるのに、年に似合わずウブな僕は思わず赤面してしまう。
「さすが事務長。隠し事、できませんね。」
と、うつむいたまま笑うしかない。
事務長と経理部長は普段、同じ事務室で仕事をしている。
事務室は建物の南東の角に配置されている。
東側の窓を背に、事務長の机があり、北側の壁を背に部長の机があり、同じく部長の机の隣に僕の机がある。
僕は朝会の時だけ事務室に顔を出すが普段は北西の角にある学芸員室で仕事している。
簡単な朝会が済むと、事務長と部長は僕が部屋から出て行く前に言葉と態度で捕まえにきた。
「先生。彼女のこと、少しは聞かせてくださいよ。」
兄ちゃんは僕の机の前に立って笑いかけて来た。
「まあ、三日ぶりに出てきたんだから少しゆっくりしてから仕事しましょう。」
事務長は接客用のカップで僕にコーヒーを差し出した。
僕は追い詰められた。
「困ったな。話すほどのことじゃないよ。」
僕はなぜかライムのことを正直に話したくなかった。
あんな小さな命。
話してしまったら、何か現実の重みに押し潰されて消えてしまいそうな気がしたんだ。
今頃、どうしているだろう。
寂しくて羽根をむしっていないだろうか。
「話したくないなら、無理しなくていいッス」
兄ちゃんは僕が神妙な顔をしていたので空気を読み自分の席に戻った。
事務長は事務室の真ん中にある応接セットのソファーにどっかりと太い体を沈め、腕組みして僕に言った。
「先生は神経質だからね。あんまり細かいことに気がつくと女に嫌われるよ。そうやって、すぐひとりで考え込むのもダメだ。もう少し軽い気持ちで言葉を話すようにしなきゃ。心は深くてもいいけど、言葉は浅いくらいでいい。いや、心が底なしに深くても言葉は、ハスの花や葉っぱみたいにぷかぷか浮いてるくらいがいいんだ。本当に大事な事は論文にまとめて学会に発表しなさい。それ意外の言葉はハスの花を目指しなさい。わかるだろ?」
「うーん。」
僕は苦笑しながら、やはり言葉が出て来ない。
事務長は僕の言葉を、いつまででも待つような顔で、こっちを見ている。
仕方がない。
何か言おう。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。確かに事務長がおっしゃる通りです。ただ、なかなか慣れていないもので、ハスの花のようなパッと明るい言葉が出て来ないんです。どうすればいいのかなぁ。あ、コーヒーいただきます。」
僕は出されたコーヒーを飲んだ。
「先生は今、迷いなくコーヒーを飲んだろ?それに毒が入っていないか疑いもせずに。言葉ってのは、ある意味、コーヒーなんだ。先生は、出されたコーヒーは飲むが、人にコーヒーを出さない。それじゃダメ。一方通行では愛も信頼感も成就しない。」
「はい。いろいろ気づかなくて申し訳ありません。頑張ります。」
僕は、親や教師に叱られている中学生の気分である。しかし、言われていることを頭で理解できても、実際にはどうすれば良いか、まるでわからない。わからないまま、国会答弁みたいに前向きに善処する旨を表明するしかない。
「まったく!大丈夫かねぇ〜。そんなんじゃ恋人に愛想尽かされて、すぐ逃げられちゃうよ。女は刺激に飢えているんだ。言葉が出て来ないなら、行動で勝負するしかないね。うんともすんとも言わない、何もして来ない、それじゃペットも飼えやしないよ。ウチの旦那も似たような人間だからさ。飼い犬にまでバカにされてるんだ。若いうちは頼りないのも可愛いけど、いい年して頼りないのは情け無いだけ。まあ、よく考えてしっかりやれ!」
「はい。心からの言葉を、ありがとうございます。真面目に頑張ります。」
僕は、正直、ザクザク槍で突かれて案外スッキリした。
事務長の言葉遣いは男みたいだが、そのザクザクした言葉の底には母性本能にあふれた思い遣りがある。
それでも・・この場に長居して場を繋ぐ自信がなかったので、そそくさと書類をまとめ学芸員室へと向かう。
廊下を歩きながら思う。
確かに、ボケっとしているとペットにもバカにされるかも知れない。
いや、待てよ?!
もしかすると、もう新聞に広告が出て、僕がインコを保護している事実を事務長は知ったのかもしれない。
という事は?!
今にも僕のスマホに、元の飼い主から電話がかかってくるかもしれない。
どうしよう。
僕は急に悲しくなった。
自分で判断して交番や新聞社に通報したにも拘らず、いざ、元の飼い主が現れたら!
ライムが連れ戻されたら・・
僕は倒れそうな気分になる。
そんな事、少し冷静に考えれば、子どもにだってわかることなのに。
ああ、なぜ僕は交番や新聞社に通報したのだろうか!
黙ってライムと幸せな日々を過ごせば良かった。
そうだ!
もし、問い合わせの電話が着ても間違い電話のふりをしよう。
いや、そんな演技できる自信がないから、知らない電話番号からの電話には出なければいい。
いっそのことスマホの電源切っておこう。
そう思ってポケットからスマホを取り出した瞬間、電話が鳴った!
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