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春。
空も空気も植物も新しく買い揃えられたランドセルやスーツのように新品で、誇らし気に澄み渡り、鮮やかに色づいている。
僕はそんな春を胸一杯吸い込んだ。
駅前の広場に咲いている桜の花がここまで風に乗って届いてきたのか、ホームに舞い落ちて、電車が来るたびふわりと舞い上がる。
僕はもう一度自分の服装を確かめ整えてから、今日もまた、仕事を始める。
そう、僕はここの駅の係員なのだ。
今日の僕の仕事はまず、ホーム案内業務だ。
車掌に合図を送るための合図灯と旗を持ち、ホームの定位置に向かう。
今のこの時間帯はちょうど朝のラッシュが過ぎた頃で、それでもまだ、カバンを持ち職場へと通勤するサラリーマンやキャリアウーマンの姿がちらほら見える。
今も僕の前を、パンツスーツを格好よく見にまとったキャリアウーマンらしき女性が颯爽と通り過ぎて行った。
と、その人がカバンから何かを落とした。
しかし彼女はそれに気づいていないのか、そのまま歩いて行ってしまう。
「すみません、これ…」
落としましたよ。
そう言おうとして、僕はその言葉をそのまま飲み込んだ。
その何かを拾おうとした手は伸ばしかけたままで。
それは、猫の首輪だった。
皮でできていて、赤色で、真ん中に花の可愛らしい飾りがついていた。
全体的にとても古びていて、所々ほつれている。
それは、僕の知っているある人の持っていたものに似ていた。
というよりも、そっくり同じだった。
もしかして、いや、もしかしなくともーーー
「あ、もしもし?もう着いた?
あー、私今向かってるとこ。ちょっと遅くなるかもしれない。
それでさ、今日の打ち合わせのことなんだけど……」
スマホを片手に持ち、通話相手と話すその横顔は、まさにあの人そのものだった。
大きな瞳も、はっきりとした眉も変わっていない。
ただ学生の頃の幼さは消え、大人の女性としての知的な美しさが漂っていた。
そして、その指には婚約指輪がはまっていた。
特別に思いを寄せていた訳では無かったのに、それを見て胸の端がちり、と焦げるような感じがした。
そして彼女だと認識した途端、忘れていた、思い出さないようにしていたのだろう苦い感触が胸一杯に広がった。
多分、それは後悔というのだと思う。
僕は彼女に声をかけようと、その肩に触れようとして、できないままその手をゆっくりと下ろした。
触れられなかった。
今更僕に、声をかける権利なんてものはないと思った。
そもそも僕は、彼女と顔を合わせられない。
彼女の方も、僕の顔など見たくもないだろう。
気がつけば、彼女はホームの人混みに紛れて見えなくなっていた。
僕は手の中の、その赤い猫の首輪を見つめていた。
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