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***
その猫の首輪は、彼女が昔飼っていた猫の首輪なんだと教えてくれた。
もうその猫は死んでしまって、この首輪は自分のお守りなのだと。
どうすればいいのだろう。
僕はそれを見つめてため息をついた。
何気なく裏返すと、そこに彼女のものらしき電話番号が書いてあるのを見つけた。
多分、猫が迷子になった時のためのものだろう。
駅係員の仕事には、お客様の遺失物の管理も入っている。
…電話するしか、なさそうだった。
「…もしもし。夜分遅くに申し訳ありません、桜駅の係員をしているものなのですが」
「…?はい」
とても久しぶりに聞く彼女の声は、やはりあの時と変わっていなかった。
「今日ホームで猫の首輪を拾いまして。裏にお客様の電話番号が書かれていたので
誠に勝手ながら、こちらに電話をかけさせて頂いたのですが
お心当たりございますでしょうか?」
「あっ…!あの、赤い色で花の飾りが付いていませんでしたか?」
「はい。付いています」
「じゃあそれ…私のです!良かったあ…今日ずっと探していて…」
「今週中に受け取りに来ることは可能でしょうか?」
「あ、はい。明日、そちらに伺おうと思います」
「かしこまりました。では...、」
「………」
「…何か?」
「あっ、いいえ!…すみません、知り合いに声が似ているなあと思って」
胸の奥がドクン、と音をたてる。
「あの…もし違ったら悪いのですが、あの××高校の...…」
「…いや、人違いだと、思います…」
咄嗟に、そう言っていた。
胸が苦しい。
「そ、そうですか。…すみません」
「いいえ」
「...じゃあ、明日受け取りに伺いますね」
「はい。…お待ちしております」
翌日。
僕はまた、ホーム案内業務についていた。
多分彼女は今頃、下の窓口であの猫の首輪を受け取っていることだろう。
これで良かったのだと思う。
今更謝ったって、あの時彼女を傷つけてしまったことは変わらないし、
ましてや今幸せな彼女に、あの頃のことを思い出させたくはない。
そう言い聞かせて仕事をした。
午前中のホーム案内業務を終え、下の駅の窓口に戻る。
すると、そこに彼女がいたから驚いた。
猫の首輪を受け取って嬉しそうに微笑みながら、駅員にお礼を言っていた。
そして、その顔がこちらを向く。
一瞬ヒヤリとした。
けれど、大丈夫だろう。あの頃から何年も経っているし、今は駅員の格好をしているから分からないはず。
彼女は僕を見て会釈した。
「ありがとうございました、駅員さん」
「いいえ」
彼女は笑顔を向けた後、背を向けて去っていく。
その背中に、どうしようもなく虚しい気持ちになるのはどうしてだろう。
その時、彼女が振り返った。
あの時と変わらない春の日差しのような、そんな眩しい笑顔で笑う。
「ありがとう、隣の席の高浜くん」
そう大きな声で言って手を振り、そしてまた背を向けて歩き始めた。
……ああ、彼女は分かっていたのだ。
昨日の電話の相手が僕だということを。
…そして、あの時僕が彼女に放った言葉は、決して僕の本心ではないということを。
さっきの曇りひとつない笑顔を見たら、そう思えた。
やっぱり、彼女には敵わない。
僕はあの頃のままだ。
臆病で、相手のためとか言いながら、いつも自分を守っている。
でもそんな僕に、君はいつも眩しいような光をくれた気がする。
春の街の中に消えていく、その懐かしい背中に僕は呟いた。
「…ありがとう。どうか、お幸せに。…隣の席の、綾野さん」
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