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3
意識が浮上すると同時に、鼻先にゴミがすえたような悪臭がした。薄目を開けて周囲を見回すと、寒々しいコンクリート剥き出しの壁が目に入った。
それに放置されたままのマットレスや毛布など、誰かがここで生活していたような痕跡がうかがえる。遠目だが使い捨てられた注射器も確認できた。
ありがたいことにジェイクは薄汚いマットレスではなく、冷たいコンクリートの床にうつ伏せに寝かされ、両手は手錠を使用して配管にくくりつけられていた。
ひどく肌寒く感じるのはジャケットを奪われ、シャツ一枚にさせられたせいだろうか。吹きさらしの冷たい風が、窓が壊れているこの部屋を終始行き来しているせいもあるだろう。下半身だけはそのままであることに感謝すべきだろうか。
「気づいたようだな、ジェイク。身体の痛みはどうだい?」
ビルだ。ご丁寧にジェイクの眼前にしゃがみこみその顔を見せる。
「身体の痛みはどうだい、ジェイク?」
答えがないことに焦れたビルが同じ質問を繰り返す。おそらく奪われたものか、もしくは彼自身の拳銃を携帯しているだろう。
ビルの機嫌を損ねることは得策ではないと思った。
「こんなもので拘束しなくとも動けやしないさ。あれから何時間経ったか知らないが、まだところどころ痺れていやがる」
「手錠のことかい? すまない。必要なことなんだ。きっと素手で組み合ったら、僕は君に敵いやしないからね」
「素手だと?」
「ああ。あくまで〝素手〟での話だが。わざわざ見せる必要もないだろうから口で言うけれど、君の銃は僕が預かっている。その気になれば君を死なない程度に負傷させることなど造作もないね」
「ビル。あなたの良心に訴えたいんだが、どうして俺を巻きこんだ?サムとあなたの因縁はサム本人から聞いた。ふたりでケリをつければいいだろう? 俺は関係ない」
ジェイクが懇願すると、ビルは眼鏡の奥の目を見開き、しばし何かを考えるように口ごもった。何かビルの琴線に触れてしまったのか。いや、自分の主張はまっとうなはずだ。
ややあって、静かにビルが口を開いた。
「サミュエルからあの話を聞いていたのかい?」
「あなたが黒人少年を誤射した事件のことですよね。ええ、確かに聞きました。ただそれは、あくまでサムの主観によるものです。俺はもうひとりの当事者であるあなたの話も聞きたい。とてもじゃないが……俺はあの人を完全に信用できないものでね」
「面白いこと言ってくれるね、ジェイク。まさしくその通りだ。でも僕の話を聞いたら、君はきっと後悔することになる。真相を知った君を僕が生かす保証はない」
「そうか? 俺はあなたが善人だと信じている」
「今日会ったばかりなのに?」
「それほど俺の相棒はクソったれだってことさ」
「やはり君は面白い。いいだろう、昔話でもしようか。君のクソったれな相棒がここに来るまでの暇つぶしにね」
「……サムが来るだと?」
正直来ると思う。あくまで自分はサムを呼ぶエサに過ぎない。
とはいえ、明らかに罠だとわかる状況に、のこのことやってくるのだろうか。仮にも捜査責任者だ。
私情さえ持ちこまなければ本当は彼が優秀な刑事だということは、誰よりもジェイク自身が知っている。
そう、私情さえ持ちこまなければ。
「来ないと思っているのかい?」
「いや、来るだろうが……その……」
「なるほど。君は彼に愛されている自覚がないんだね」
「あれはアイツが勝手に……っ」
「ジェイク。強がりはよくない。君と直接顔を合わして、まだ数時間しか経っていないけれど、僕だって君とパートナーになりたい。もっとも、まだ刑事だったらという話だが」
刑事だったら、というビルの発言が耳に痛い。ジェイクが黙ると、ビルはしゃがみこんでいた体勢から一度立ち上がり、壁を背にして脚を投げ出して座った。
「まず、ジェイク。君がサミュエルから聞いたことを確認したい。それらを訂正するほうが、僕としても話しやすいから」
「あなたは何も悪くない。すべてはサムの勘違いが引き金だったと」
「うん。あとは?」
「あなたが発砲事件を起こした際に現場を撮影され、動画が世に出回った。あなたは処分を受け、警察を辞め、それから……」
「それから?」
「……奥様と娘さんを亡くした」
書類上は子を巻きこんでの無理心中とあるが、直接的な表現ははばかられた。ジェイクの話を聞き終えたビルの表情は読めない。
「俺が知っている話はこれですべてだ」
「なるほど……」
ビルは虚空を仰ぐ。何を考えているのだろうか。ジェイクはただ待つことしかできない。
「結論から話すと、僕は少年を撃っていない」
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